ふいに「あそこに雲に乗った仙人がいる!」と、言われても大して驚かないかもしれない。そんなことを考えながら、ベトナム・ニンビン省チャンアンの川で小舟に揺られていた――。
2014年に「チャンアン複合景観」として世界遺産に登録された同地で、奇岩、奇峰、湿地が織りなす絶景の景勝地を冒険してきたので、その模様をお届けしよう。
喧騒を忘れさせる圧倒的な自然美
ハノイから車に乗り、南下すること約3時間。"陸のハロン湾"と称されるチャンアンに到着した。道中の車窓からは、猛スピードで行き交うバイクの大群、道路脇で当たり前に売られているヤギの丸焼き……などなど、エキサイティングな光景を次々に目撃。しかし、目的地のチャンアンはそれらとは正反対に、とても詩的な雰囲気に満ちていた。
地元のベトナム人たち、世界各国から訪れた観光客など大勢の人が集っているものの、その喧騒をもすっぽり覆い隠してしまうほど、自然美が際立っている。ここにやって来る人たちの目的は、小舟に乗って美しい景観を眺める川下り体験。すでに景色に圧倒されているのだが、川下りではどんな絶景が見られるのだろうか。期待に胸膨らませながら、舟に乗り込むことにした。
手漕ぎボートで絶景の川を往く
船着場には数えきれないほどのボートがズラリと並んでおり、同じように漕ぎ手のベトナム人たちが列をなしている。言われるがままに指定のボートに乗り込み、救命胴衣を身に付け、いよいよ川下りがスタート。
舟を操縦してくれるのは、女性の船頭さん。正直「小柄だけど、大丈夫だろうか……」と若干不安だったのだが、慣れた手つきで櫂(かい)を漕ぎ、それと同時に小舟はスムーズに進んでいく。さすが職人だ。
15分ほど進むと、川幅が広く、視界が開けた場所に出たのだが、"息をのむ美しさ"とはまさにこのこと。険しく切り立った奇岩や奇峰がいくつも立ち並ぶ景観は、誰もが呼吸さえも忘れて見入ってしまうだろう。
目の前に連なる岩山の数々は石灰岩で、なんと2億年以上もの時をかけて蓄積したものだという。もともと同地は海底にあり、長い時を経て岩々が隆起し、この風光明媚な景観が形成されたのだ。舟を心地よく揺らす清流は、これらの奇岩や奇峰を縫うように流れており、舟は曲がりくねった流れに沿ってゆっくりと、のんびりと進んでいく。
スリリングな洞窟探検
先に進むと、いつの間にか岩肌むき出しの奇峰が前方に出現。よく見ると、下部に小さな空洞ができている。すぐ目の前まで空洞が迫ったとき、それまでひと言も発しなかった船頭さんが、何かを発言(ベトナム語なので、わからない……)。ジェスチャーから想像するに恐らく「身をかがめて!」的なことを言ったのだと思われる。
そう、船は空洞へと突入するのである。船の乗客は皆、ささっと身をかがめるのだが、船頭さんは「もっとかがんで!」的なことを言っている。その後も「もっと!」「もっと!!」と船頭さんが促すので、全員が座っていた椅子から腰を落とし、床に座る格好になった。なかなか際どい格好になるので、女性はスカートでなく、パンツスタイルで乗船することをオススメしたい。
そんな格好でさえも、岩がぶつかるんじゃないだろうかというぐらい空洞は狭い。というか、あまりに入口の小さい穴だったので"空洞"と呼んでいたが、中に入ると全長300mは超える立派な"洞窟"と言える規模だった。
……にしても、狭い。全長こそ長いものの、とにかく狭い。しかし、船頭さんは櫂を漕いだり壁に押し当てたりして、狭くてくにゃくにゃと曲がった洞窟を巧みに進んでいく。その間、少しばかり天井の高いところもあれば、頭が少し岩肌にかするぐらい低いところもある。暗い洞窟の中で、迫りくる岩をよけながら進んでいくのは、まるで冒険のよう。もう気分はインディージョーンズだ。
川岸に点在する古刹を巡る
遠くに外の光が見え、いよいよ洞窟を脱出したときには自然と乗客たちから「お~っ」という声が漏れた。またもや奇岩や奇峰が織りなす美しい景観が広がっている……のだが、実はコース内には洞窟が8つ(!)もある。序盤の1~3つぐらいは、乗客も「お~っ」とか「わ~っ」とか言っているのだが、終盤は全員が慣れた身のこなしで岩をかわせるようになった。
また、洞窟以外にも探検気分を盛り上げてくれるのが、川沿いに点在する寺院。川岸にひっそり佇む古刹の数々は、ほとんどが小舟でしか行くことができないとあって秘境感がたっぷり。
壮大な自然美に加え、歴史ある寺院がいくつも点在している風景は、まさに"複合景観"として世界遺産に登録された由縁が感じられる。なお、川下りでは数ある寺院の中から1カ所に立ち寄り、参拝することができる。
このほか、川沿いの山々には山ヤギや世界に200頭しかいない猿「ベトナムラングール」も生息しており、幸運な人は見つけることができるという(残念ながら筆者には姿を見せてくれなかった)。
幽玄な景観が心に癒しをくれる
終始、見ごたえたっぷりであった川下りの所要時間は、なんと約2時間。かなり長いのだが、いざ乗ってみると絶景のオンパレードで見どころが多く、洞窟をくぐり抜けるスリリングなシーンもあって、退屈することは一切なかった。
人によるかもしれないが、船頭さんがまったく話しかけてこないのも、個人的にはよかった。その分、美しい景色に浸ることができ、有意義な時間を過ごせたように思う。
ただ、約2時間にわたって日光にさらされるので、帽子と水筒(ペットボトルを買ってもいい)、サングラス、日焼け止め対策は必須。途中、船を下りることはできないので、乗船前にトイレも済ませておくようにしよう。
幻想的な自然美、荒々しい洞窟、重厚な寺院の数々……それら幽玄なムードに満ちたチャンアンで船に揺られれば、日々の喧騒をすっかり忘れ、スッと心が軽くなったような気がする。「あそこに仙人がいる!」――とはならなかったが、どこか懐かしく、そして神々しい景観は、きっと誰もの心に癒しを与えてくれるに違いない。
取材協力:ベトナム航空