日立製作所は10月2日、近年注目が高まる「量子コンピュータ」について、その特徴やグローバルでの研究開発の潮流、そして日立としての研究開発戦略を語る研究開発戦略説明会を開催。同社の量子コンピュータ開発を先導する研究開発グループの水野弘之技師長が、日立による量子コンピュータ開発の“未来”について語った。

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    日立 国分寺サイトにて研究開発が行われているシリコン半導体量子コンピュータの希釈冷凍機(提供:日立)

また説明会の中では、日立、理化学研究所(理研)、imecの3者間で、シリコン半導体量子コンピューティング分野におけるグローバルなエコシステム構築に向けたMOU(基本合意書)を締結し、研究開発を加速させることも明らかにした。

  • 日立の水野弘之技師

    説明会に登壇した日立の水野弘之技師

“100周年”の量子力学から生まれた量子コンピュータ

1925年、ドイツの物理学者であったヴェルナー・ハイゼンベルクは、「行列力学」を発表。これが“量子力学”が誕生した瞬間だとされている。それからちょうど100年が経過した現在、世界各国のさまざまな企業・機関が量子コンピュータに関する研究開発に力を注いでいる最中だ。未だに素子・アーキテクチャの両面で確立された手法は無く実用化には至っていないものの、着実に社会実装への歩みが進められている。

そもそも量子コンピュータとは、電子が“粒子”と“波”の両方の性質を併せ持つことを利用している。古典コンピュータでは1ビットで“0”か“1”かの2進数で情報を処理するのに対し、量子コンピュータで用いられる量子ビットは、粒子・波それぞれの性質を兼ね備えることにより実現される「重ね合わせ状態」をそれぞれのビットが有するとのこと。そのため古典ビット・量子ビットをそれぞれ100ビットずつ用いて計算処理を行う場合、古典ビットでは必要な組み合わせをひとつずつ全通り計算する必要があるのに対し、量子ビットでは重ね合わせ状態を活用してすべての組み合わせ(2100通り)を同時に計算し、答えをあぶり出すことができるとする。

  • 「量子ビット」と「古典ビット」の違い

    「量子ビット」と「古典ビット」の違い。“重ね合わせ状態”が可能な量子ビットでは、複数通りの組み合わせを同時に計算して答えをあぶり出すことができる(出所:日立)

このように、量子コンピュータが革新的な処理能力を発揮するための“要”ともいえる量子ビットだが、その作製方法としてはいくつかの方式が検討されている。原子の中に存在する電子を利用することで安定性を高める「中性原子型」や、共振回路を用いた「超伝導型」などが存在する中、日立が特に着目しているのが、量子ビットである電子を“量子ドット”と呼ばれる箱に入れ、それを集積させることで高性能演算を可能にする「シリコン半導体型」だ。同手法は、他の2手法が課題とする集積性の面で強みを有し、高いスケーラビリティを誇るため、社会実装した先でのユースケース拡大が期待される。一方で、各量子ドットの制御が難しいことなどさまざまな課題が残されており、日立の水野氏は現在、そうした課題の改善に向け、内閣府が主導する大型研究開発プログラム「ムーンショット型研究開発事業」の一部として、他の機関とも連携しながら研究開発にあたっているとする。

  • 量子ビットの作製手法とそれぞれの特徴

    量子ビットの作製手法とそれぞれの特徴(出所:日立)

社会実装に不可欠な“誤り耐性”とは?

水野氏によれば、量子コンピュータの開発速度は予測されていたものよりも早く、ハードウェアだけでなく量子情報工学の面でも研究は深まっており、専門家の予測を超える劇的なスピードで革新が起こっているとのこと。特に、代表的な暗号として知られる2048ビットのRSA暗号について、その因数分解に用いられる“ショアのアルゴリズム”は改良が重ねられ、解読に必要な物理量子ビット数も格段に減少。現在では量子コンピュータの実用化に必要な量子ビットの実装数は100万(106)規模だとされている。

ただし、それだけの規模の量子ビットを用いても、実用化が可能と言えるほどの計算精度にすることは「ほぼ不可能」だという。その中でも限りなく精度を高め、実利用を可能にするために構想されているのが、「量子誤り耐性型汎用量子コンピュータ(FTQC)」だ。

量子誤りは、ノイズによる量子ビット状態の減衰などに起因するといい、量子コンピュータでの計算における情報の損失や計算結果の不正確さにつながるとのこと。それを防ぐため日立では、英・ケンブリッジ大学に拠点を構える日立ケンブリッジラボと東京科学大学、理研との連携により、量子ビットのノイズ耐性を向上させ、その寿命を100倍以上長く安定化させることに成功した。また昨今では、物理量子ビットの数が増えることで、それらの複合化により仮想的に作成された論理量子ビットの誤り率も低減されていくことが判明。量子ビットの制御技術と集積化をさらに深化させることで、信頼性の高い量子コンピュータの実用化が見えてくるとする。

  • 量子ビットのノイズ耐性向上

    量子ビットのノイズ耐性向上による効果(出所:日立)

  • 量子誤り訂正符号の実装による効果

    量子誤り訂正符号の実装による効果(出所:日立)

理研・imecとのMOU締結やクラウド公開の予定を発表

そして今回の説明会において日立は、シリコン半導体量子コンピュータの実用化を目的とした、理研・imecとのMOU締結を発表した。これまでにも日立は両機関と連携しており、imecとの協業では量子ビットの試作と評価を実施し、高集積実装を検討。また理研とは、量子誤り訂正符号を実装する量子ビットの配置方法を共同で検討し、効率的な誤り訂正符号を実現する実装アイデアとして共同特許を出願している。

そして今般のMOU締結により、理研が有するシリコンスピン制御技術や、imecが有する半導体微細加工設備およびプロセス技術を、日立の量子コンピュータ技術に融合していくことで、量子ビットの高精度制御と大規模集積化の同時実現を目指すとのこと。また量子ビット制御回路やソフトウェアなど、量子コンピュータを構成する各要素の高度なインテグレーション技術を活用し、シリコン量子コンピュータの実用化および新産業創出に貢献していくとした。

  • MOU締結の概要

    日立・理研・imecによるMOU締結の概要(出所:日立)

また日立としてはこのほかにも、量子コンピュータの基礎研究を深化させるため、日立ケンブリッジラボの移転と新規ラボを立ち上げたとする。加えて、Q-STAR(量子技術による新産業創出協議会)との連携によって、量子コンピュータのユースケース探索も行うとのこと。現時点では明確な活用方法が想定されていないが、水野氏は「スマートフォンが存在しなかったころには、普及した未来やその価値を実感することはできていなかったはず」としつつ、「量子コンピュータが完成してからユースケースを探るのではなく、先だってアプリケーションを探索することで、実用化を加速させたい」とする。

そして今後について水野氏は、量子コンピュータの“クラウド公開”によるオープンな開発も検討していると明かした。量子コンピュータの社会実装に向けては課題が多く、量子アルゴリズムを開発するにしても、その検証を行うための量子コンピュータの性能にはまだ不足があるという。そのため日立は、量子コンピュータおよび量子デバイスの研究者や科学者を対象に、量子コンピュータ“そのもの”の開発を見据えてクラウド公開を行うといい、2027年度を目途に実験環境を提供することで、エコシステムを拡大しさまざまな知恵を結集させていきたいとしている。

日立が掲げる量子コンピュータ社会実装に向けた開発のロードマップでは、現在目途が立っているという4×4量子ビットの試作機開発を進歩させ、2028年には100量子ビット、そして2030年には1000量子ビットの試作機を完成させることを目指すとのこと。「1000量子ビットまで集積化が進められれば、その先には社会実装に向けて違う世界が広がっている可能性もある」といい、2035年ごろのFTQC実現に向けて、今後も研究開発を続けていくとしている。

  • 日立の量子コンピュータ開発ロードマップ

    日立が掲げる量子コンピュータの社会実装に向けたロードマップ(出所:日立)