いまから10数年前になるが、当時出入りしていたディーラーが新たにディアブロを扱うというので、冷やかしに行ったことがある。その店舗に届いた第1号車は、ショールームではなくサービス工場に鎮座していた。整備の講習を受けて帰ってきたばかりの整備士がいろいろと説明する。いわく、「クラッチ交換が大変で……」。

筆者はいい機会だと思い、以前から気になっていた質問をしてみた。「このヘッドライトは日産のZにそっくりですよね」。するとすかさず、「そっくりじゃなくて、Zのヘッドライトそのものです。いちおう、これは内緒にしておいてくださいね」。

ランボルギーニのフラッグシップモデルはカウンタックからディアブロ、ムルシエラゴ、現在のアヴェンタドールへ受け継がれた(写真はイメージ)

いまでは広く知られた事実だが、当時それを知る者は少なかった。筆者自身、「デザインが自慢のイタリア車だが、日本車のデザインの影響を受けているのでは?」という意味で聞いたのであって、同じパーツだとは夢にも思わなかった。サイドマーカーやテールランプを他車種と共有するモデルはけっこうあるが、自動車の"顔"であるヘッドライトを流用するとは、さすがに理解の枠を超えている。

理解を超えているといえば、当時、このクルマの存在そのものが、筆者にとって理解の枠の外にあると言ってよかった。非現実的という意味ではフェラーリやポルシェも同じだが、それらには長い歴史とサーキットでの栄光という裏打ちがある。だからその存在を理解することはできる。しかしこのディアブロという存在は、どう理解すればいいのか?

ディアブロは人々を魅了できる「純粋な美術品」だった

そこにあるのは、大排気量にものを言わせたエンジンと、まるでクルマに興味のない一般人を驚かせるためだけにデザインしたかのようなスタイリング。他社の設計者にショックを与えるような革新的なエンジニアリングを採用しているわけではなく、レースで伝説となるような成績を残したわけでもなく、また、ニュルブルクリンクでとんでもないタイムを出したわけでもない。なぜこんなクルマがこの世に存在するのか? このクルマの存在意義が何なのか? しばし悩んだ覚えがある。そして悩んだ末、むしろこのディアブロこそが、スーパーカーの真髄なのだという結論に達した。

考えてみれば、スーパーカーというのはとにかく"無駄であることが美徳"なのだ。ファミリーカーなどとは価値基準を逆転させなければならない。無駄に大排気量であるほど、無駄にハイパワーであるほど、無駄に大きく、運転しにくく、実用性が低いほど、「優れたスーパーカー」といえるのだ。これは別にけなしているわけではない。優れた芸術である絵画や彫刻に実用性などないように、スーパーカーも人の心を魅了し、感動させ、数千万円ものお金を払わせる価値を持つには、実用性や経済性とは程遠い存在でなければならないのだ。

ディアブロは純粋な美術品であり、半端な実用性などないからこそ、人々を魅了できる。それに気がつくと、輝かしい歴史を背負っているフェラーリでさえ、打算があって純粋ではないように思えるから不思議だ。合理主義の塊であるポルシェなどは論外となる。

ディアブロの"美学"はムルシエラゴ、アヴァンタドールへと受け継がれる。技術の進歩によって信頼性や運転のしやすさは確実に向上しているはずなのだが、それでも「実用的になった」などという評価は間違っても受けないようにしているとしか思えない、そのランボルギーニの開発姿勢には脱帽せざるを得ない。