今日元気で会った人でも、明日会えるとは限らない。再会を約束しても、次はないかもしれない。
(『喪の旅 愛しい人に出会い直す』より)
愛する人を失ったとき、人はどのように生きていけばいいのでしょうか。悲しみを抱えたまま、それでも日々を重ねていく中で、少しずつ見えてくるものがあります。
今回は、死別の悲しみを抱いてどう生きていくかを取材した河合真美江さんの著書『喪の旅 愛しい人に出会い直す』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より、急病で妹を亡くしたかなさんのお話をお届けします。
5人の命になって生きる妹。いつかビールで乾杯を
急病で亡くなった妹の臓器提供をしたかなさん
《今日、妹の葬儀でした。
51歳、クモ膜下出血
あまりにも若い死でした。》
こう始まるメールが2023年4月中旬、「喪の旅」担当あてに届いた。送ってくれたのは関東地方に暮らす、かなさん(55)。会って話を聞くと、「気持ちがどうにもならなかった」と苦しい思いを明かされた。
三つ下の妹、ゆきさんが突然倒れたのは4月初めの夕方。勤め先の会社で一服している時だった。病院に運ばれ、くも膜下出血と診断された。重篤だった。
ゆきさんの夫から連絡を受け、かなさんはタクシーで病院へ急いだ。今夜が峠だと医者に告げられた。
何が何だか、わけがわからなかった。なぜ。あんなに元気だったのに。
翌朝、眠る妹のまぶたをそっと開くと、すでに瞳孔が開いていた。
かなさんは看護師だった。だから深刻さがわかった。「もう治療できない」と医者は言う。そして、脳死下の臓器移植を考えたことはないかと問われた。
かなさんは医者の夫と話し合って、臓器を提供する意思表示カードにふたりともサインしている。でも、妹とはそのような話をしたことはない。かなさんも妹の夫もすぐには答えられなかった。
集中治療室(ICU)に毎日通った。寄り添うと、妹の体はあたたかい。手をさすって、泣いた。ただただ、泣いた。
どうして、どうしてなの、ゆき。
心が決まったのは、妹の会社にあいさつに行った時だった。「こんなことになるなんて」と同僚たちは泣いた。経理の仕事を30年、懸命にしてくれたと上司らにねぎらわれた。誇らしかった。
社会人として、妹は立派に生き抜いたのだ。帰り道、妹の夫に「臓器を提供する人はすごく大きな人だと思う」と言葉をかけた。
彼も決心したようにこんなことを言った。ゆきの大切な体の一部がどこかで生きていると思うと、少しは救われる―。
彼は決断を臓器移植コーディネーターに伝えた。
「だれかがたすかるのなら、どうか使って下さい」
倒れてから10日後、妹は2回の脳死判定を経て、臓器摘出手術を受けた。心臓と肺、肝臓、腎臓が5人のもとへ。各地の病院から駆けつけた移植チームの担当医らに「必ず生かします」と感謝された。
臓器を移植した人たちに元気になってほしい。いまはひたすら祈る思いだ。
かなさんは妹と弟と3人きょうだいで育った。看護学校に入るまで、妹とずっと同じ部屋で寝起きをともにした。けんかもしたけれど、一緒に大笑いしたことばかり思い出す。
それぞれ家庭をもち、働いていたので、しょっちゅう会えたわけではない。でも、妹夫婦の愛犬を連れてドライブしたり、プロ野球のDeNA戦を観戦したり。好きなビールを一緒に飲んだものだ。豪快で楽しい妹だった。
23年初めに父親が亡くなり、2月にふたりで実家の片付けをした。そんな時も、やはり頼りになるのは妹だった。「おもちゃとかガラクタばかり。よくとってあったねえ」とぼやきながら片付けたっけ。その日が元気な姿を見る最後になるとは思いもしなかった。
21年には、母親ががんで亡くなっている。緩和ケア病棟に入り、半月ほどだった。コロナ禍のため、面会が制限されていた。連絡を受けて駆けつけると、母親は旅立った後。悔いが残った。
コロナ禍の下で母を見送り、続いて父も、そして妹も逝ってしまった。
ふと子どものころを思い出す。夏休みには家族で海水浴に行った。海でパチャパチャしているのを、両親が見ていてくれた。
歳月は過ぎ、弟と自分だけになった。でも、追憶の風景の中で5人は笑っている。
ふいに涙があふれて、こらえられない。泣きながら、いつも思う。
ゆき、私の妹に生まれてきてくれてありがとう。私がそっちへ行ったら、ビールで乾杯しようね。
著者:河合真美江(かわい まみえ) 1963年、東京生まれ。1986年に朝日新聞社入社。松江支局や大阪本社整理部、文化部、金沢総局などに勤務し、文芸やジェンダー、死別と向き合う生き方などを取材してきた。2025年6月に退社。「ベルサイユのばら」で宝塚歌劇と出会い、小学生のころから50年以上見てきた。記者として歌劇100周年のころを担当。

