NHKで2020年から不定期に放送されSNSでも話題を集めた番組『業界怪談 中の⼈だけ知っている』が、体験者たちに徹底追加取材し、より恐ろしくより不可思議なノンフィクションホラーとして、NHK出版が書籍化。その業界にいれば当たり前のように周囲の間で知られていたり、経験したりするような出来事でも、その外にいる人間には知る由もない、ときに不思議で、ときに身の毛もよだつ体験談から、とっておきの怪談2篇を試し読みでご紹介します。
今回は、葬儀業界でのある怪談です。


【前回のお話】自死した女性の遺体を棺に納めるため、現場へ向かった葬儀屋の「僕」。その部屋は、異様としか言いようがなかった。床中に飛び散った血。ひきちぎられたような髪の毛がそこらじゅうに散らばり、毛玉のようになっていた。ご遺体は右手の人差し指が真っ赤に染まり、そして長さが、ほかの指に比べて少し欠けている。自分で食いちぎったのだ。その指で、壁に文字を書いたのだ――【……最初から読む】

「コンセキノコスナ」(2)/尾崎正則さん(仮名・葬儀会社経営)

『タカシシネ』

大きく、乱暴に、ありったけの憤怒を込めるような、血文字。
エアコンが稼働しっぱなしだったのは幸いだった。かすかな機械音とともに冷風が舞う中で、蠅や蛆がうごめいていた。もし蒸された室内だったら、その数に耐えきれなかったはずだ。
僕は窓を開けて換気をし、専用の薬を撒いて、部屋を消臭した。靴下を履き替え、故人に近づくための道筋をつくるために床の血をふきとった。でもどうしたって、その部屋にしみついた腐臭は、消えることはない。
ベランダではぱたぱたと音をたてて、白いワンピースがはためいていた。
「なんで死んじゃったのかな……」
そうつぶやいたのは、ひとりで静かな空間に取り残されるのが怖いから。そして、どんな姿であっても、最後まで生きた故人に人として向きあうためだ。
「まずは身体をきれいにしましょうね」
そう言って僕は、全身の血をぬぐうためのお湯をくもうと、ユニットバスに向かった。おそらくそこで手首を切ったのだろう。血にまみれた小さな洗面所に置かれた、ピンク色と水色の二本の歯ブラシが妙に浮いて見えた。そして、蛇口をひねろうとしたそのとき、
バン! バン!
と激しい音がして、心臓が飛び跳ねた。あわてて通路に飛びだすと、勢いよく閉まる玄関ドアが目に入る。なんだ、風か――納得しかけて、止まった。ドアは最初に閉めたはずなのに?
いや、たぶんしっかりハマってなかったのだろう。そう自分に言い聞かせて、バケツに張ったお湯をご遺体のそばに運んだ。
「ちょっと失礼しますよ」
声をかけながらタオルで血を拭き取り、新しい洋服に着せ替えていく。ちぎられた指には包帯を巻いて、お顔に目をやった。

  • ※画像はイメージです

悲痛な亡くなり方をしたご遺体は、必ずと言えるほど口が開いている。目を閉じるのはそれほど難しいことではない。しかし、口を無理に動かせばご遺体を損傷してしまいかねない。生前の微笑み、とまではいかなくとも、いかに口元を穏やかに施すかというのは、僕らにとって大事な仕事だ。
彼女の口元は、激しく歪んでいた。
物理的な痛み以上に、死の間際まで、憎しみがほとばしっていたのかもしれない。「タカシ」という名前の、おそらくは水色の歯ブラシを使っていた男への。
何があったかわからないけど、せめてあなたの尊厳をとりもどせるように、精いっぱいつとめさせていただきます。そんな気持ちで僕はご遺体に触れていた。
そこに、彼女を軽んじる気持ちは一切なかったと断言できる。この仕事をはじめてまだ三年目、成人したてのひよっこではあったけれど、どんな亡くなり方をしたとしても、僕らが向きあっているのはその人が最期まで生きた証しなのだ、という敬意だけは常に忘れないようにしていたから。
――でも。
関係ないのだ、そんなことは。
彼女の無念と、怒りの前では。
そのとき、鋭く突き刺すような視線と気配を、天井のほうから向けられていることに、僕は気づいてしまった。その瞬間、脳裏に見知らぬ誰かの声が響いてくる。
「……ハヤクカエレ……ハヤクカエレ」
気のせいだと思い込もうとして、化粧を続けた。しかし、彼女のお顔の向きを変えたとき、
「ヤメロ!」
はっきりと聞こえた。脳内にではなく、耳元に。
「チカヅクナ」
「ノコスナ」
「スベテノコンセキノコスナ」
「カカワルナ」
「カエレ! カエレ! ヤメロ! デテイケ!」
ふるえあがった僕は最後の仕上げを済ませるやいなや、早々に現場を立ち去った。逃げるようにそのまま自宅へ帰って時計を見るとすでに日付は変わっていて、家族みんなが寝ついた家は奇妙なほどに静かだった。
僕は、袋に入れておいた血の付いた靴下だけでなく、作業の際に身に着けていたものはすべて脱ぎ去り、専用の処理ボックスに捨てた。

……続きます。

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本連載は、 『業界怪談 中の人だけ知っている』より、一部を抜粋してご紹介しています。

『業界怪談 中の人だけ知っている』(NHK出版)
編者:NHK『業界怪談 中の人だけ知っている』制作班

怪奇体験から垣間見える、現代社会の実像と歪み――。同書は、2020年からNHKで不定期に放送されている人気番組『業界怪談 中の人だけ知っている』のシリーズ1~シリーズ3から、番組の再現ドラマを参考に、体験者たちひとりひとりに徹底追加取材し、怪談小説として細部にまでこだわって編み上げた全16篇からなる一冊。番組のファンはもちろん、怪談愛好家やホラー好きの人も、リアリティあふれる各業界の怪談小説から、体験者たちの見たもの、聞いたものを⼀緒に感じてみてはいかがでしょうか。Amazonで好評発売中です。