前回、ドバイに旅に出て大変な解放感を感じたことを書きました。その後ドバイの街から砂漠まで移動し、砂漠の中にあるホテルに泊まり、砂漠をラクダで散歩したりと、砂漠を満喫してきました。

見渡す限りの砂の中をラクダでテクテクと歩きながら、私は楽しくてたまりませんでした。こんな景色があったのか、見ようと思えば、こんな景色を見ることができるのか、という感動でいっぱいで、いつでもどこにでも行けるのだという自由を心の底からかみしめていました。そう、ラクダに揺られながら……。

帰国後に襲いかかった"自由の代償"

旅でまさに命の洗濯をした状態で帰国した私は、その夜、夢を見ました。それは、「みんな誰かと家族になっているのに、自分だけがひとりぼっち」という夢でした。叫びたくなるような気持ちで目が覚めました。

砂漠でひとりぼっちでラクダに乗っているのはあんなに楽しかったのに、日本でひとりで生きていくのは、こんなにも不安なのかと泣きたくなりました。

結婚というのは、ひとつの保障のようなものだと、私は思います。異性と愛し合っているという保障、何かあったときに支え合うパートナーがいるという保障、家族がいるという保障……。それは「結婚した以上、支えなければいけない」という重荷になる場合もあるでしょう。

しかし、なんの重荷も背負わずに気ままに暮らしている私にとって、その"身軽さ"は、帰国するとそのまま"なんの支えもない不安定さ"に変換されてしまったのです。海外でどんなに解放感を味わっても、それはその土地に定住するわけではないからこそ感じる「異邦人の気楽さ」でしかないということにも、どこかで気づいていたのかもしれません。

ドバイでいくらナンパされ、そこが楽しい土地に思えても、いざそこで生活したり、継続的なお付き合いをしたり、結婚したりということになれば、近いうちに「ドバイにも発言小町みたいな悩みがあるんだな~」「ドバイの嫁姑問題ハンパないわ~」と気づかされていたに違いありません。

そういう煩雑なつながりを背負う覚悟がなければ、なんの保障も受けられないことを、私は知っています。しかし、保障があることの喜びを噛み締めながらも、ときにそこから逃げ出したいと思う人がいるように、私も我が身の気ままさを喜びながらも、この不安定な身の上から逃げ出したい、と思うこともあるのです。

「ひとりだけで生きていかなければいけない」という夢は、私にとって、すさまじい恐怖でした。東京に戻れば友人もいるし、九州には家族もいて、決して「ひとりだけ」で生きているわけではありません。

でも、家族や親族とのつきあいもろくにしていない私には、どこか「ちゃんとしていない」うしろめたさが常につきまとっています。そのうち、この「つながり」から、投げ出されるのではないかという恐怖があります。

家族とは、結婚とは、夫とは……。帰国早々、そんなことが頭の中をグルグルとメリーゴーランドのように回り始め、軽くパニックに陥ってしまいました。早くも、また海外逃亡したい気持ちでいっぱいです。いろんな国に行ったり、帰ってきたりしていれば、日本特有の「結婚していないことで気分が沈む感じ」の理由も理解できるのでは……?と思うのですが、またそのような機会があれば、ここでご報告したいと思います。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。

イラスト: 野出木彩