漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「方言」だ

方言とおわしゃいましても、ワテらのお言葉はよう標準語に近えと言われまんねんでごわす。

と、訛っている人間というのは自分が訛っていることに気づかないものである。

私も生まれてこのかた田舎から一歩も出ていないので相当訛っていると思うが正直自分ではわからない。

しかし私は同郷の人に、お国の言葉があまり根付いていない郷土愛に欠ける売国奴であるとよく褒められる。

かと言って標準語が話せるというわけでもない。

言葉というのは対話の中で覚えて、そして流暢になっていくものだ。

私は田舎以前に部屋からもろくに出ないしもちろん人とも話さない。

つまり、標準語、方言以前に「言葉があまり喋れない」のである。

よって話しかけられて「ファッ!?」とか出るならまだ良い方で、多くの場合が「……」という意図せぬフルシカトをかましてしまい、感じの悪いやつとしてますます話しかけられなくなる。

しかし、本当に無言かゴリラ語しか話せないというなら良いのだが、一応喋れることは喋れるし、喋らなければいけない場面があることが問題なのだ。

方言がきつい人というのは、方言で話す機会の多い人、そして方言の人と話す機会が多い人である。

私があんまり訛っていないのは幼少の時から同郷の者ではなく脳内の誰かとばかり話していたからだと思う。

つまり、私は生身の人間よりも脳内の誰か、そしてゲームや漫画と向き合っていた時間の方が遥かに長いのである。

オタクが妙に芝居がかった話し方をするのも、リアルな会話よりもアニメや漫画の会話の方に接する時間の方が長いからと思われる。

よって私の話す言葉も側から見れば完全な「オタク語」なのだと思う。

しかしよく聞いてみると私の言葉はオタクですらないのである。

私は生身の人間と話した時間も短いが、かと言ってアニメや漫画をたくさん見ているわけでもないのだ。

私が向き合ってきたのは圧倒的に「インターネット」なのである。

インターネットにも独特の言葉や構文が存在する。

そしてインターネットというのはいろんなキャラクターが存在するアニメや漫画と違い、全体的に辛辣で揚げ足とりが大好き、そして妙に斜に構えているのが特徴だ。

端的に言って性格が悪い、そして何よりキモいのである。

つまり私の方言はよく言えば「インターネット弁」悪く言えば「キモ弁」だ。

方言の場合は「可愛い」と好意的に捉えられることもあり、わざわざ方言女子と対戦するために地方の風俗にいく人もいるぐらいだが、キモ弁は何せキモいので使うと好感度が爆下がりする。

そしてキモ弁の何がキモいかというと、話し方自体もそうだが、それよりも「その喋り方が面白い」と思っている自意識がキモいのである。

社会性のない人間というのは、自己評価と他人からの評価の間にカイジばりの歪みが生じているため、的外れや勘違い行動を起こしやすく、ますます周囲からキモがられるのである。

つまり、周りからはキモがられていることに気づかず、面白いと思って流暢なキモ弁を披露してしまい、キモがられるのだが、方言を話している方は自分が方言を話していることに気づかないように、キモ弁の使い手も自分がキモ弁であることも、相手にキモがられていることにも気づけず、話せば話すほどキモくなっていくという悪循環なのだ。

「沈黙は金」という名言を生み出した人間はおそらくキモ弁の使い手に3時間ぐらい捕まってしまったのだろう。

喋らないのも感じが悪いが、キモいことをキモい言動でいうぐらいならまだ黙っていた方がマシなのである。

しかし、キモ弁の上にオタクだと、途中まで地蔵のように喋らなかったのに、運悪く推しの話になってしまったため、ジェスチャーを交えながら英語で話すように、突然キモ動作をしながらキモ弁を早口で言ってしまうという最悪のコンボを決めてしまうことがある。 ただ、コロナのせいで、生身の人間よりインターネットに向き合う時間の方が長くなってしまったという人は多いはずである。

つまり、世の中はコロナのせいで「全体的にキモくなった」可能性がある。

元からキモい人間としては、自分のキモさが目立たなくなって良かったのかもしれない。