プリファブ・スプラウト『Steve McQueen』名盤誕生秘話──マーティン・マクアルーンが語る、兄の名曲を歌い継ぐ理由

透明感あふれるサウンド、切なくも瑞々しいメロディで愛されてきたプリファブ・スプラウト(Prefab Sprout)。UKニューカッスル近郊ダラム出身のバンドが、1985年に発表した代表作『Steve McQueen』(米国盤タイトル『Two Wheels Good』)の全曲再現ライブが、2月17日(火)大阪、2月19日(木)東京のビルボードライブで開催される。そのステージに立つのは中心人物パディ・マクアルーンの弟、マーティン・マクアルーン(Martin McAloon)。活動当時はベースを担っていた彼が、ギター1本で名曲たちを歌い継ぐのはなぜか。再出発の背景とバンドの物語に迫る。

1988年撮影のプリファブ・スプラウト:左からニール・コンティ、パディ・マクアルーン、ウェンディ・スミス、マーティン・マクアルーン(Photo by Kevin Cummins/Getty Images)

兄の名曲を継承するまで

—プリファブ・スプラウト唯一の来日公演は1986年7月、「NEW ARTIST SHOWCASE」というイベントの一環でした。

マーティン:あの時は東京と大阪でライブをして、それ以外にも11日ほど滞在したと思うんだけど、毎日インタビューを受けていたんだ。50〜60くらいの媒体の取材を受けたと思う。だから、ホテルの部屋から一歩も出られなくて、東京ではどこにも行けなかったんだよね。東京でライブをやって、次の日に新幹線で京都に行ったよ。その日の午後、京都の寺社を駆け足でまわったんだ。雨の中、傘を差してね。それから大阪に行って、1、2日ほどライブをやって、すぐにイギリスに戻った。でも、日本はすごく楽しかった。

どちらの会場でも演奏時間は1時間程度だったと思う。オーディエンスの反応は熱狂的で、本当に楽しかった。そうそう、A-haも同時期に日本に来ていたんだよ。レストランを出たあと、(間違えて)彼らのリムジンに乗り込んだら、警備員に追い出されちゃったのを覚えている(笑)。

—今回はそのとき以来、なんと40年ぶりの来日になります。

マーティン:兄のパディは10年か20年くらい前に一度日本に行って、インタビューを受けたことがあるんだけど(※1999年にプロモーション来日)、僕はずっと機会がなかった。まさかこの年齢になって、再び日本で演奏できるチャンスに恵まれるなんてね。本当に嬉しいしワクワクしているよ。

プリファブ・スプラウト、1985年のライブ映像

—あなたは2010年代のある時期から、Feliks Culpaという名義でドローイング・アートを手掛けていましたよね。もう音楽活動はやめたのかなと思い込んでいたので、2023年にライブ活動が活発化して驚きました。そのあたりの経緯を教えてください。

マーティン:ちょっと奇妙な話なんだけど、僕がアーティストになったのは、誰かに僕のアイデンティティを乗っ取られたことがきっかけだった。誰かが僕になりすまして、(プリファブの)デモテープやレア音源を手に入れようとしたんだ。それで僕は、自分として存在できないのなら、別の誰かになろう……そうだ、アーティストになろう、と思ったんだよ。つまり、自分を否定されたことへのリアクションとして、アーティストになったんだ。

それから10年くらい経った頃、友人が声を掛けてくれたんだ。彼はビートルズが演奏したキャヴァーン・クラブみたいな感じの、50人キャパくらいの小さなドーム状のヴェニューを経営していて。それがちょうど3年前の昨日(※取材日の前日:2022年11月27日)のことだった。

Feliks Culpa名義の作品『A Year Of Living Dangerously』。ヒッチコック映画『鳥』を素材に、2013年を通して連日描き続けられた365点のドローイングからなるシリーズ(公式ホームページより引用)

—最初のライブはどんな感じでしたか?

マーティン:本当に酷かったね(笑)。最初の5曲は緊張しすぎて手が全然動かなかった。ギターを握っているのに何も起こらない、みたいな。でも、東京と大阪へ行く頃には、通算100公演を達成している予定だから、その頃より遥かに良くなっているはずだよ。僕は一般的にベーシストと認識されていて、本職のシンガーではないけど、歌うことはできるしギターも上手く弾ける。僕がアルバム1枚分の曲を演奏できることに、オーディエンスはみんな驚くんだ。実際、それ以上の曲数だって披露できるし、どの曲も書かれた当時の状態に近い形で演奏することだってできる。そこがすごく好意的に迎えられているようだね。日本のみんなにも気に入ってもらえたら嬉しいな。

—もともとシンガーではなかったあなたが、「歌える」「歌おう」と思い至るまでにはどういう経緯があったのでしょう?

マーティン:僕はずっと、自分が「歌えない」人間だと思ってきた。ロックダウンの時期に、Facebookで「(プリファブの曲を)何曲か演奏してくれませんか?」と依頼されたことがあるんだけど……実際に弾き語りをしてみたら、ほとんど歌えなくてね。歌詞を覚えたこともなかったし。でも、曲そのものは改めて好きだなと思って。そこから少しずつ曲のキーを探る作業が始まった。最初の頃はギターを手に取り、どの曲も全部同じキーで歌っていたんだけど、それが僕の声にまったく合ってなくて。それで半音、さらに半音と徐々にキーを下げていって、自分の声に合うキーを見つけていったんだ。そのプロセスに3年もかかってしまったけど、ようやく自分に合う形が見えてきたような気がするよ。まだときどき音を外すけど、それは僕がAIではない何よりの証拠だから(笑)。

マーティンが「Goodbye Lucille #1」を演奏、サビではシンガロングも

—YouTubeにあるライブ動画を通じて、我々リスナーの脳内にはパディの歌声が刷り込まれているのに、あなたの歌声がどの曲でも違和感なく、むしろ心地よく感じることに驚きました。しかも単なるパディの模倣ではなく、自己流の解釈を届けようともしている。

マーティン:そう、まさに自分なりの解釈であって、兄の真似をしているわけではないんだ。僕らの声は似ている部分もあるけどね。二人とも柔らかい声質で、耳に刺さるような声ではないよね。ただ、兄は肺活量がすごくて、しっかり声を響かせる力があるけど、僕の声にはそれがない。空気を送り出す力が弱いんだ。長年タバコを吸いすぎたせいかも(笑)。

—でもソフトな声質のおかげで、楽曲の繊細さが際立っているように思います。バンド編成ではなくギター弾き語りでライブを続けることには、やりがいや難しさもあるのでは?

マーティン:最初はものすごく怖かった。誰とも一緒ではない状態がとにかく怖くてね。でも、僕は1990年〜2010年くらいまで教員として大講堂に立ち、何百人もの学生に講義をしてきたんだ。彼らは音楽家としての僕を知っているわけではない、これから人生をスタートさせる若者たちだ。そんな彼らに対して「僕の話には聞く価値がある」と納得させる必要があったんだ。その経験を通じて、僕はステージでの立ち振る舞いを学んだように思う。ギターがなくても、きっと君たちを楽しませられると思うよ(笑)。

僕は今、ひとりでやっているから、(プリファブのメンバーだった)ウェンディ・スミスの歌声も、ニール・コンティのドラムも再現することはできない。だからこそ、オーディエンスと僕との間に対話が生まれるような、そんなパフォーマンスを心掛けている。あと、パディは素晴らしいギタリストでもあるけど、その腕前を理解している人は少ない気がするね。だから僕の演奏を通じて、ギターパートがどれだけ作り込まれているのかもアピールしたい。ライブに来てもらえれば、僕らの曲がどれほど複雑で入り組んでいるかを実感してもらえると思うよ。

—プリファブ・スプラウトの曲はコード進行が複雑なので、演奏するのも大変そうですが。

マーティン:すごく大変だよ(笑)。でも、自分たちの曲を演奏するのが大好きなんだ。僕がギターを弾き始めたのは7歳の時で、その少しあとに兄もギターを始めた。それから兄が曲を書き始めて、いろんなコードを使っていたんだけど、実は僕たち二人とも、そのコードが何なのかまったく知識がなかったんだ。ただ指の形だけを見て「ああ、この形を真似すればいいんだな」っていう感じでコピーしていただけだったんだよね。コードの名前なんてひとつも知らなかった。僕たちは訓練されたミュージシャンではないし、スティーリー・ダンみたいに体系立った音楽教育を受けたわけでもない。どのコードがなんという名前なのか、実は今でもよくわかっていないんだ。頭の中で組み立てて覚えているだけなんだよね。

「Appetite」(『Steve McQueen』収録)を演奏

覚醒前夜のプリファブ・スプラウト

—パディとは昔からずっと仲がいいんですか?

マーティン:うん。僕らはパディと僕、マイケルの3人兄弟で、7歳の頃にギターを始めてからずっといつも一緒だし、今でもすごく仲がいいんだ。

—となれば、兄弟で一緒にバンドをやるのも必然だった?

マーティン:そうだね、選択肢はそれしかなかった。バンドを作ろう、一緒にやろうってね。初期の頃にマイケル・サーモンという人が参加していたんだけど、残念ながら彼は2年前に亡くなってしまった。とても親しい友人で、一緒にギターを弾きながら育ってきた仲間だった。腕前はパディが一番、僕が二番手、マイケルが三番手。それでマイケルがドラム、僕がベースを担当することになった。必要なものを揃えて、とにかくバンドの体裁を整えた感じだね。常にはっきりしていたのは、プリファブ・スプラウトこそ僕が加入したいと思った唯一のバンドだったということ。もちろんビートルズを除いてね(笑)。他のバンドに入りたいと思ったことは一度もないよ。

—プリファブ・スプラウトというバンド名は、1972年の頃には思いついていたそうですね。パディはそこから最初のレコードを作るようになるまでの期間、3人で試行錯誤しながらバンドをやっていた時期が一番楽しかったと振り返っています。

マーティン:ああ、とても楽しかったよ。僕たちはよく、ミュージシャンについて書かれた文章を読んだりしていたけど、誰でもよかったんだ。ポップスターでも、ロックスターでも、クラシックの作曲家でもね。たとえば、シュトックハウゼンや冨田勲のレコードを聴いたりしながら「自分たちにもできるかな?」って考えるんだ。「これはどうやったんだろう?」「自分たちならどうやる?」ってね。そういう目標や憧れのようなものがあって、触れるものすべてが僕たちに影響を与えてくれた。

—ウェンディ・スミスが加入したのが1982年。彼女の声はプリファブ・スプラウトの音楽をどのように変えたと思いますか?

マーティン:もともとパディの声には、少し荒削りな部分があった。そもそも彼自身、当初は自分のことをシンガーだとは思っていなかったんだ。最初の頃は、誰か歌ってくれるボーカルを見つけようと思っていたくらいさ。当時、僕たちはガレージで働いていたんだけど、そこに車が次々と入ってくるから、「いつか歌える人がガソリンを入れに来て、そのままバンドに加入してくれないかな」なんて冗談みたいに考えていたくらいだよ(笑)。パディが歌い始めたのも、ほかに歌える人が見つからなかったからなんだよね。

でも、ウェンディが加入したことで、僕たちの音楽にまったく新しい質感が加わった。彼女はビブラートを使わない。すごく澄んだ真っ直ぐな声を持っていて、揺らぎのないトーンをとても綺麗に出すことができる。その声が、パディの声にぴったりと寄り添うんだ。彼女のように歌える人はほとんどいないと思う。

この投稿をInstagramで見る Prefab Sprout(@prefabsproutofficial)がシェアした投稿 『Swoon』レコーディング時のプリファブ・スプラウト。左からパディ、マーティン、プロデューサーのデイヴ・ブルーウィス(ケイン・ギャング)、ウェンディ

—1984年にデビューアルバム『Swoon』を発表。次作の『Steve McQueen』より未整理の尖ったサウンドで、パディがこの作品を”Sprout Mask Replica”と呼んでいたというエピソードが個人的に大好きです。

マーティン:僕らの大好きなキャプテン・ビーフハート(『Trout Mask Replica』)へのオマージュだよね。懐かしいなあ(笑)。さっきのバンドを結成した頃の話もそうだけど、最初にアルバムを作った頃を思い返すと、本当に愛おしい気持ちになる。当時はまだどのレーベルとも契約していなくて、アルバムを作るチャンスはこの一度きりだと思っていた。だからこそ、持っているものをすべて注ぎ込んだ結果だね。とにかくやれることは全部やった。

レコーディングはほぼライブのような感じで、ギター、ベース、ドラムは一日でアルバム全曲分を録音した。そのあと、16日間かけてボーカルを重ねたり、キーボードを入れたり、ギターを追加したりした。作業は大変だったけど、とにかく楽しかった。スコットランドのスタジオに籠もって作業して。あれは本当に特別な時間だった。

—このアルバムの曲もよくライブで披露しているみたいですね。好きな曲は?

マーティン:全部好きだけど、「Elegance」と「Cue Fanfare」が特に好きだね。「Cue Fanfare」は本当に大好きで、ほぼ毎晩のように弾いているよ。あの曲を弾いていると、16歳の自分を思い出すことができるんだ。その頃に戻ることはできないけど、あの頃のように弾くことはできる。だからこそ弾き続けているんだ。まるで屋根裏にある鏡みたいな……自分がどんなふうだったかを思い出させてくれる、そんな存在だね。

—『Swoon』から以降の作品に至るまで、パディの歌詞には、カトリックの信仰にまつわるテーマが繰り返し登場しています。そういった歌詞を人前で歌いながら発見したことはありますか?

マーティン:信仰は僕にとっても大切なものだけど、曲そのものと直接結びついているわけではないと思う。どちらかと言えば、僕自身の記憶やバックグラウンドと紐づいている感じだね。ただ、ひとつ気づいたことがあって。もちろん昔から歌詞が素晴らしいことはわかっていた。でも、改めて向き合いながら覚え直す作業をしていると、以前にも増して深いものを感じることができるようになってきたんだ。ただベースを弾いていただけの頃とは、まったく違う深みに気づいたというか。

子どもの頃、パディはポートフォリオのような大きなファイルに、手書きの歌詞を全部まとめていた。彼の部屋に置いてあって、よくこっそり入っては歌詞を盗み読みしていたよ。だから、僕は昔から歌詞にとても近い場所にいたと思う。(プリファブにとって)歌詞はサウンドと同じくらい……もしかしたら、もっと重要な存在かもしれない。だから、歌詞についてもじっくり読むべきだし、深く味わうべきだと思う。

『Steve McQueen』を振り返る

—パディはかつて「『Swoon』の頃は曲がりくねった道を通っていたけど、次作の『Steve McQueen』ではトーマス・ドルビーのおかげで、なるべく最短距離で進めるようになった」と語っています。プロデューサーを務めた彼との出会いがもたらしたものを教えてください。

マーティン:トーマスは、パディとはまったく違う視点を持っていた。だからこそ良き相棒になれたんじゃないかな。パディが何か音源を持ってくると、トーマスはそれを聴いて「この部分は素晴らしい。でも、こうすればもっと良くなる」という具合に、いつも的確に見抜くんだ。前作の『Swoon』を聴いて、トーマスは複雑すぎると感じたみたいで、今回はもっとシンプルにしようと考えて、僕たちのアレンジに細かく手を入れていった。曲の途中で迷子になりそうな部分、散漫に聞こえる箇所をカットしたり、メロディやサビの構成を調整したりという具合にね。

演奏面についてもそう。たとえば「Appetite」では、僕のベースラインにさまざまな提案をして、ニールのドラムともっと噛み合うようなリズム構築の手助けをしてくれた。僕たちだけでは絶対に思いつかないようなアイデアだったね。彼の手法はブライアン・イーノと少し似ていて、「あるシチュエーションを想像して、その中で自分ならどう動くか考えてみよう」というような提案をしてくれるんだ。抽象的だけど、本当に役に立つアプローチだった。『Steve McQueen』でトーマスのやり方を目の当たりにしたことで、僕らは技術の磨き方を学んでいった。経験を重ねるほどに問題点を素早く見抜き、すぐ修正できるようになる。そこから僕たちの制作プロセスも洗練されていったんだ。

もっと後期になると、トーマスは自分が手掛けてみたい曲だけに参加するようになった。『From Langley Park To Memphis』(1988年)の「Cars and Girls」も彼に依頼したんだけど、「この曲は自然に完成するだろうから僕は必要ない」と断られたんだ。トーマスはその頃、多くのレーベルから他のバンドでも『Steve McQueen』を再現してほしいと依頼されたけど、すべて断ったそうだ。彼は「それはもうやったから、別のことをやりたい」と言っていて、それこそが真のアーティストたる姿勢だと思う。

—トーマス・ドルビーがプロダクションに余白をもたらしたことで、あなたのベースプレイが変化した部分もありますか? 「Bonny」や「Appetite」での演奏を聴くと、前作より”less is more”に徹しているように感じるのですが。

マーティン:いや、「Bonny」は僕がずっと弾いてきたスタイルそのままだね。あの曲が書かれたのは1978年5月で、当時は『サタデー・ナイト・フィーバー』が流行っていて、ビージーズの「Night Fever(恋のナイトフィーバー)」がチャート2位に入っていた。僕が15〜16歳だった頃の話だ。その頃から1985年に発表するまで、「Bonny」のベースラインはずっとほぼそのまま。今でも当時と同じ気持ちで弾いているよ。

一方の「Appetite」は、その頃とまったく違うタイプの曲だった。あのベースラインは、僕とニールとトーマスの3人による、完全な共同作業から生まれたものなんだ。それぞれのパートが複雑に噛み合うように作られている、インターロックする構造こそがこの曲の肝だった。制作過程も「Bonny」とはまったくの別物で、僕としてはそこがすごく気に入っている。

ベースラインといえば「Hey Manhattan!」も印象深いね。『From Langley Park To Memphis』の曲で、プロデュースを手がけたのはアンディ・リチャーズだけど、あの曲のベースは何度も作り直したんだ。最初に一つベースラインを書いたあと、デモ用と本番用でそれぞれ別のベースラインを書いて、ストリングスが乗ったあとに一度録ったベースラインをすべてボツにして、弦の動きに合うように作り直したんだ。「ちょっと待てよ、ここは別のアプローチが必要だ」という場面が何度も出てきて、小節ごとに入れ替えては組み替えて、すべての音符を一音ずつ細かく交換していくような作業だったよ。

—バンドの代表曲「When Love Breaks Down」について、印象的なエピソードはありますか?

マーティン:フィル・ソーナリーと一緒にレコーディングした曲で、彼は色々なヒット曲を手掛けていた。デュラン・デュランの作品にも関わっていたんじゃないかな(※1983年のアルバム『Seven and the Ragged Tiger』でミックスを担当)。録音したのはミッキー・モストが所有していたスタジオで、ロンドン動物園の近くにあって、60〜70年代にはホット・チョコレートというバンドに愛用され、スージー・クアトロもよく出入りしていた。まさにヒット曲が生まれてきた場所だった。

僕のベースとニールのドラムは初日に全部録り終えて、よく覚えているのはウェンディのボーカルの録り方だね。彼女はまず一つの音を歌って、それを重ねて、さらに別の音を加えるというやり方をしていた。ミキシングデスクを使って、まるでピアノを弾くように重ねていくんだ。レイヤーをスライドさせて、ミックスで出し入れするというふうにね。

—『Steve McQueen』で演奏するのが特に難しい曲、手応えのある曲は?

マーティン:B面には「Horsin Around」のような複雑な曲がいくつか出てくるよね。「Desire As」も細かいパートがたくさんあって、まるでテトリスのような曲だ。ひとつのピースが次のピースに上手くはまっていく感じで、流れを断ち切ることなく演奏するとなると、(音源とは)また別の難しさがある。レコードだとシンセや何層ものボーカルが入っているけど、ライブでは自分の歌とギターだけだからね。そこで僕は、ステージに立つ自分を「ナイル・ロジャースがプロデュースするカーリー・サイモン」だと想像するようにしている。カーリーなら「Desire As」をどんなふうに歌うだろう?と考えるんだ。そういうイメージを持つことで集中することができる。

—『Steve McQueen』は、なぜここまで長く愛される作品になったと思います?

マーティン:もはや僕らの作品ではなく、”あなたの作品”だよね。魂を注ぎ込んであのレコードを作ったけれど、そこから先はみんなのものだ。ライブで収録曲を演奏していると圧倒されるよ。泣いている人もたくさんいる。その人が生きてきた時間、愛した人たちの記憶がその曲に乗って返ってくるんだ。それこそが最高の瞬間だよ。どのレコードも僕にとっては大切だけど、この作品は多くの人にとって特別な存在なんだと思う。世代を越えて届いているのも嬉しいね。

—『Steve McQueen』はジャケット写真も有名です。撮影について覚えていることは?

マーティン:あの日はとても寒くて、あとから雪が降り始めた記憶がある。実をいうと写真は白黒で、あとから手で彩色されたものなんだ。ニールの膝だけ色が付いていなくて、白黒のまま残っている。バイクも本当はもっと金色っぽい……ゴールドかブロンズのような感じだったと思う。僕らは全員カメラマンのジョン・ワーウィックを見ているんだけど、実際にシャッターを押したのはアシスタントだった。カメラマンはカラー、アシスタントはモノクロで撮影していて、僕たちが採用したのはアシスタントが撮影した写真だったんだ。

—あの絶妙な構図は誰のアイデアだったんですか?

マーティン:偶然の産物じゃないかな。ほかにも僕がバイクの上に寝そべっていたり、誰かがバイクの前に立っていたり、山ほど撮影したパターンから選んだベストショットを何枚か見せてもらって、満場一致で「これだね」と決まった。当時プリンスが『Purple Rain』のジャケットでバイクにまたがっていたよね。あれをふざけて真似してみたんだ(笑)。それがここまでアイコニックなイメージになるとは思いもしなかったよ。今では、ほかのアーティストがあのポーズを真似たり、マンガに登場したり、7人編成のバンドがバイクの周りに集まっているのもあったりするからね(笑)。

1985年と2024年のマーティン(本人のXアカウントより引用)

その後のアルバム、パディとウェンディの近況

—あなたはその後、2001年の『The Gunman and Other Stories』までバンドに参加してきたわけですが、特に思い入れのあるアルバムは?

マーティン:『The Gunman and Other Stories』(2001年)のサウンドはすごく気に入っているよ。トニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎えた作品で、僕自身のベースプレイにもかなり満足している。自分ではこういうことをあまり言わないけど、あのレコードで初めてプロのミュージシャンになれたと感じたんだ。職人っぽいクオリティがあるというか。もちろん、『Andromeda Heights』(1997年)や『Protest Songs』も好きだし、全部いい作品だと思うけど、僕のお気に入りは『Jordan: The Comeback』(1990年)かな。『I Trawl the Megahertz』(2003年)はパディが全部ひとりで作った作品だけど、あのアルバムも素晴らしいね。『Lets Change the World with Music』(2009年)の制作も楽しかった。『Jordan : The Comeback』の次に続くはずだったアルバムのデモがあって、パディは2〜3年かけてもっと壮大な作品を書こうとしていたんだけど、結局は当時のデモをそのまま使う形にしたんだ。それと同じように、パディはジミー・ネイルのために「Cowboy Dreams」を書いて、それが『The Gunman and Other Stories』に繋がっていった

「Cowboy Dreams」を演奏する2000年のプリファブ・スプラウト

—「If You Don't Love Me」はカイリー・ミノーグにもカバーされましたし、プリファブ・スプラウトは若い世代のアーティストにも愛されていますよね。

マーティン:カイリー・ミノーグのカバーは素晴らしいよね。彼女は僕らが本来やるべきだった、ピアノとボーカルだけというミニマルな形に仕上げてくれた。とても勇気のある選択だったと思う。ロッド・スチュワートやシェールもそうだけど、カバーしてもらえるのはいつだって嬉しいし光栄だよ。

あとはグレッグ・アレクサンダーから直接聞いた話があって。「You Get What You Give」で有名なニュー・ラディカルズにいた人だね。彼は『Steve McQueen』が大好きで、ある夜パーティーに行くのを両親に禁止され、仕方なく家で「Appetite」をずっと聴いてたんだって。その夜に生まれた曲が、ソフィ・エリス・ベクスターの「Murder on the Dancefloor」だったそうだ。どこで誰に影響を与えるのかわからないものだよね。

「Murder on the Dancefloor」はリリース当時の2001年と、映画『Saltburn』で使用された2024年にそれぞれ全英チャート2位を記録したヒット曲

—ところで、パディとウェンディはお元気ですか?

マーティン:うん。パディは今でもずっと、つねに曲を書いているよ。すごく元気にしている。ウェンディも元気だね。昨夜(※取材日の前日)も妻と電話で話していたみたいだ。彼女は音楽業界に大きく貢献していて、僕らの地元ニューカッスルでこの一年に開催されたMOBOアワード、マーキュリー・プライズといった賞の授賞式にも携わっているんだ。

—最後にまたライブの話を聞かせてください。当初から50曲くらいレパートリーを用意していたそうですね。今回の来日公演では大阪・東京で計4回ステージに立つ予定ですが、セットリストもその都度変わりそうですか?

マーティン:『Steve McQueen』の曲を全編演奏して、そのあとに他のアルバムからヒット曲をいくつか演奏するつもり。どの曲をやるかはまだ決めていないけど、なんとなく候補は決まってるかな。君のお気に入りは?

—「Doo-Wop In Harlem」です。過去にライブでやってますよね?

マーティン:時々やってるけど、あの曲は歌うのがすごく難しいんだ(苦笑)。

—ライブの場でリクエストを受け付けることもあるそうですね。

マーティン:2年前にマンチェスターでライブをした時、オーディエンスの一人が『Jordan: The Comeback』の「We Let the Stars Go」をリクエストしてきて。僕が「その曲は歌えないんだよね」と言ったら、客席のひとりが手を上げて「自分が歌います」と言ってくれて。ステージに上がってきて、スマホを取り出して歌詞を見ながら歌い始めたんだ。それがもう素晴らしくてさ。僕がギターを弾いて、彼が歌って。客席も大喜びだったよ(笑)。最近も似たようなことがあって、ある男性が奥さんに促されて「Cars and Girls」を歌いたいと叫んでいたから、「どうぞ」とステージに上げて歌ってもらった。そういうのは大歓迎だね。もし君が「Doo-Wop In Harlem」を歌いたいんだったら歌詞を覚えてきてね(笑)。

マーティン・マクアルーン来日公演

2026年2月17日(火)ビルボードライブ大阪

1stステージ 開場/開演:16:30/17:30

2ndステージ 開場/開演:19:30/20:30

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2026年2月19日(木)ビルボードライブ東京

1stステージ 開場/開演:16:30/17:30

2ndステージ 開場/開演:19:30/20:30

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