生きるとは、働くとは、幸せとはなにか考えるシリーズ「生きる、働く、ときどき病」。
「52歳、私の髪は…白髪です」そう語るのは、SNSで大人気のインフルエンサー、姫さん。20代の頃、重度のパニック障害を患い、白髪になった彼女は、自分を心から愛おしいと思えるようになるまで、20年以上の年月がかかったと言います。
今回はそんな姫さんの逆境と病を越えて得た気づきについて、『52歳、今ようやく人生が始まるの』(KADOKAWA)よりお届けします。
■パニック障害と共に生きていく
私が病気を発症したのは20代後半。職場でのイジメが原因でした。重度のパニック障害になり、後に不安障害とも診断されました。
モデルの事務所をやめた後、私はカラオケボックスでアルバイトをしていました。同世代の女の子が多く、バイトが終わるとみんなで待ち合わせて毎日のように飲みに行ったり遊びに行ったり。まるでサークル活動のように楽しく過ごしていたのです。
ところが、一人の女性社員が配属されてきたことで、職場の雰囲気が一変。その女性が好きだった男性が、私に好意を持っていたという理由で、私にキツく当たるようになったのです。
彼女は私にやめてほしかったようですが、負けず嫌いの私は「せっかく楽しく働いてきたのに、やめたくない」と頑張ってしまいます。
それが面白くなかったのでしょう。ついには女性アルバイト全員を自分の味方につけ、私一人を集中的にイジメるようになりました。
それまで毎日のように一緒に過ごしてきた仲間たちからのまさかの仕打ち。すごくショックでしたが、「こんなことで負けたくない。耐えていればきっとまた前のように仲良くできる――」、そう信じてひたすら我慢しているうちに夜眠れなくなり、呼吸がうまくできなくなるなど、身体に異変が起こり始めました。
職場の更衣室でけいれんを起こして倒れた時も、「大丈夫?」の声すらかけてもらえない。全員から無視され続け、誰にも助けてもらえない日々が続きました。
精神的にも身体的にもはるかに限界を超えていましたが、それでも悔しくて自分から職場をやめるという選択はできませんでした。
中心になって私をイジメていた女性社員が転勤でいなくなると、少しずつイジメはおさまりましたが、その頃にはもう心身共にボロボロでした。ある日、職場に行こうと乗った電車で激しい動悸がして汗が止まらなくなったのです。呼吸もうまくできなくなって、下車しましたが、しばらく動くこともできませんでした。それ以来、電車に乗ろうとすると発作を起こした恐怖が蘇り、だんだん電車に乗れなくなっていきました。
さすがに自分でもおかしいと思うようになり、医者に行ってみようと決めました。そこで、はじめて精神科を受診。「パニック障害」と診断されました。
当時はまだ「パニック障害」「不安障害」という病気は、ほとんど知られていませんでした。病気に対する世間の認識も十分なものではなく、私の両親、とくに母親は「(自分の娘が)そんな病気のはずがない。ただの甘えではないのか」と思っていたようです(実際に、そのようなことも母から言われました……)。
診断を受け、薬を処方してもらいましたが、今にして思えば、医者の対応は決して十分なものではなかったように思います。私が行ったのが専門の病院ではなかった(当時は、今のように専門の病院がほとんどなかったのです)からなのか、ただ大量の薬を処方されただけでした。
しかもその時もらったのが、睡眠剤、気分を上げる抗うつ剤、そして気分を落ち着かせる精神安定剤という、正反対の作用をもたらす複数の薬。それを同時に服用するように、という処方だったのです。
さらに、その薬はどれも、かなり強い効果が出るものばかり。飲むと目がうつろになり、気分もボーッとして、ただ生きているだけのような生活になっていきました。
それでも、その時の私は「お医者さんが飲むようにと出してくださったのだから」と、律儀に毎日飲んでいました。藁にもすがる思いで病院に行った私にとって、処方された薬を飲むことだけが、回復の希望だったのです。
それなのに、もらった薬を飲んでも、一向に症状はよくならず、ただいたずらに薬の量だけが増えていく……。そんな日々でした。
そんな暗闇から這い上がることができたのは、ひとえに夫の殿ちんのおかげです。
少しずつ症状が改善し、一度は断薬にも成功して完治したかのように思いましたが、その1年後に再発。今も通院はしています。でも症状は軽いので、心配することはありません。
一時期は「完治」を目指していましたが、何事も完璧を目指すと、達成できなかった時に落ち込むものです。病気の自分も、たまに薬を飲む自分も、ぜんぶ認めて受け入れるようにしたら、気持ちも身体もラクになりました。
そう考えられるようになったのも、殿ちんのおかげ。殿ちんの大きな愛については、長くなるので、また別のところでお話しします。
■痛みを知っている人は人に優しくできる
職場のイジメが原因で体調を崩し始めた時、私は自分の気持ちを吐き出すために、ひたすら詩を書いていました。暗い詩ばかりでしたが、書き溜めるうちに、「これが曲になったらいいな……」と考えるようになりました。
そこで、当時音楽情報誌に掲載されていた「メンバー募集」コーナーを見て、作詞とボーカルを募集していた人と会ってみることにしたのです。結局、その人とユニットを組むことはありませんでしたが、彼の勤めていた音楽スタジオで女性ボーカリストを探していた男性を紹介してもらい、その人と一緒に音楽活動をすることになりました。それが殿ちんです。
殿ちんとユニットを組むと決め、毎週スタジオに行って曲を作り始めた頃、体調不良は徐々にひどくなっていきました。電車に乗るのが怖くてなかなか乗れず、乗るとしても、いつでも降りられる各駅停車にしか乗れない……など、行動範囲が徐々に狭くなっていきました。
また、レコーディング中に発作を起こして倒れたり、帰りに具合が悪くなって車で送ってもらったりすることも増えていきました。
それでも、殿ちんにサポートしてもらいながら少しずつ音楽活動を続けていき、ヤマハのオーディションにも参加。オーディションには落ちたものの、声をかけていただいて、1年契約でデビューに向けて挑戦させてもらえることになったのです。
でも、その頃は体調がよくなったり悪化したりを繰り返していた時期。精神的に不安定な状態なのに、〝売れる〟ための歌い方や歌詞作りを要求されるストレスで、声がだんだん出せなくなり、一度音楽活動をお休みすることに決めました。
私とのユニットを休止した殿ちんは、別のバンドに誘われて、そちらで活動することになったのですが、そのバンドのボーカリストが、私と同じような症状に苦しんでいる人でした。
はじめて気持ちを分かち合える人に出会えた、と私は思いました。彼もそう思ってくれていたようで、会う時には、お互いに話をするようになりました。
その頃私は病院に行って「パニック障害」という診断を受け、投薬治療を行っていたのですが、彼は病院には行かず、自分で薬を調べて海外から個人輸入で仕入れるなどして入手しているとのことでした。そのせいなのか、気分のアップダウンがかなり激しく、端から見てあまりいい状態には見えませんでした。
そして、ある日突然、その彼が自ら命を絶ってしまったのです。
そのことを聞いた時、もっと私が話を聞いてあげればよかった。もっと何かできたのではなかったか、と激しい自責の念にかられました。
今も、彼のことを思い出すと涙が出ますし、心が痛くなります。
もっとつらい気持ちを話してくれていたら、もっと助けを求めてくれたら……とも考えますが、「つらい」「助けて」と言えないくらい彼が追い込まれていたのだということも、今ならわかります。
だから、もしまた目の前に私と同じような病気を抱えた人が現れたら、今度こそちゃんと受け止められる人になりたいです。
自分でも人生を何度も投げだそうと考えたくらい、希望も何も持てなかった時期がある私だからこそ、聞ける話もきっとあると思います。
そう考えると、私のつらかった経験も苦しかった経験も、誰かの役に立てる糧になっているのだなと思えるのです。


