「あれは私の人生で最も美しく、濃密な時間でした」|日産フェアレディZ開発者が『オクタン』オランダ版に語った開発秘話

『Octane』オランダ版の編集長は、実は日本車をこよなく愛している。そんな彼から、オランダ版でフェアレディZ/ダットサン240Zを取り上げたという知らせが届いた。現在81歳の元プリンス自動車工業/日産自動車に在籍し、Z開発に携わった宮崎武雄氏へオランダでおこなったインタビューだという。「あれは私の人生で最も美しく、濃密な時間でした」と語る、宮崎氏のインタビューをここに一部抜粋してお届けする。

【画像】Z開発に関わった宮崎氏に、『オクタン』オランダ版が当時の様子をインタビュー(写真9点)

「あのメーカーの創造性、仲間意識、情熱に、私は惹かれてなりませんでした。採用面接に行った時、社長へお会いできないかお願いしてみたのですが、オフィスには不在でした。その代わり、工場でピストンの箱に膝をついてかがみこんでいる社長のお姿に遭遇したんです。プリンス自動車工業の実践的な雰囲気を象徴していたと今でも鮮明に覚えています」と宮崎武雄氏は語る。晴れてプリンス自動車工業に入社できた宮崎氏だが、やがてプリンス自動車は日産自動車に買収されることになった。そこで宮崎氏を待ち受けていたのは、日産フェアレディZ/ダットサン240Z(輸出モデル名)の開発だった。

取材班はオランダ・ヘルダーラント州の町、ビューレンにある「フィッシャー博物館」で宮崎氏に会った。彼は「S30.World」と銘打たれた展示のオープニングに出席していた。この展示は日産フェアレディZとダットサン240Zへの唯一無二の賛辞である。宮崎氏はS30.Worldウェブサイト用に、これまで語られてこなかったストーリーを明らかにしてくれた。

宮崎氏は1943年大阪で生まれた。父親は衣料品会社を経営しており、二人の息子に継がせたいと考えていた。末っ子の宮崎氏は関西大学・工学部化学工学科へ進学し、布地染色の新しい方法を学ぶ、もしくは発明するために送り出された。しかし、彼の心は別のところにあった。薄々気づいているだろうが宮崎氏は根っからの「車好き」で、ヒルマン・ミンクス・カブリオレ、プリンス・スカイライン1500、日産フェアレディ1500などに乗っていた。

「大学での8年間は自由な時期で、ホンダS800でのレースを含め、可能な限り楽しみました。鈴鹿サーキットでは24台が参加する特別なワンメイクカップがあって、メーカーからサポートを受けたプロドライバーが大半のレースをリードしていました。雨のレースで何人かのトップドライバーがクラッシュした中、私は5位でフィニッシュしたんです。その後、プロチームから誘いを受けたこともあります。プライベーターとして私は速かっただけでなく、クラッシュ回避に長けていたように思います。レースへの関心は薄れ結局、その誘いはお断りしました。父が他界して、もはや父の会社で働く必要はなく自動車産業か航空会社で働きたい、と自分が望む道を選べました」と宮崎氏は振り返った。

プリンス自動車工業が日産自動車に買収されたころ、日産フェアレディZとダットサン240Z(社内コードS30)のデザインはすでに決まっていた。日産はすでにスポーティなオープンカー、ダットサン・スポーツ(オーストラリアと米国では「フェアレディ」)を発売していたが、本格的な競争力のあるスポーツカーで世界進出を目指していた。そういう意味でS30はまだまだ開発の余地が残されていた。

「アメリカで人気のあったMG Bよりも優れていて、価格は最大でも200ドル高い程度に抑えることを目指していました。私は新人でしたけれど嬉しいことに、そして驚いたことにS30を開発するチームに加わることになりました。当時、新人には非常に珍しいことで、同僚全員が羨ましがったものでした。十分な知識を持ち合わせていたとは思いませんでしたが、S30をできる限り素晴らしい車にする熱意は確実に持っていました」と宮崎氏は話す。

「最初の任務の一つは、他のチームが行ったテストを再テストすることでした。そもそも有能な人々で構成されていたこれらのチームがすでに行ったことを、二重にチェックするのは奇妙な任務だと思ったものです。ダブルチェックはS30に対してのみ行われていたことで、当時はその重要性を理解していませんでした。プロトタイプが完成する前だったので、私はできるだけ多くの知識を集めました」。上司の鎌田氏からは車両のハンドリングについて、坂本氏には東京大学の風洞施設でスケールモデルのS30で気流を、プリンス自動車でレーシングカーを担当していた坂田氏からはボンネット下の熱管理について学んだそうだ。

「プロトタイプのテストと評価にはすべてのチームの協力が必要で、彼らから学ぶ必要がありました。最初は躊躇していた様子でしたが"S30のため"だと聞くとすぐに準備してくれたものです。必要な知識を習得するのに2週間しかなく週6日、昼夜を問わず働きました。日中はエンジン、ボディの剛性、サスペンション、路面挙動などをテストしました。日中は車を外に出せなかったため、動的テストは夜間に行いました」。重量配分や空力特性への影響を排除するため、テスト車両にカモフラージュは施されていなかった。そして、真夜中に行われたテストでは、衝撃的な発見がなされたという。

「S30を"裸"で走らせるためには、テストコースのすべてのライトを消し、新型車を見ようとする好奇心旺盛な人々を阻止するために10人の警備員をコース脇に配置する必要がありました。テストコースの周囲にある小さな丘には展望台があったので、そこにも警備員を配置しました。当時の上司であった鎌田氏と私にはわずか30分のテスト時間しかありませんでした。鎌田氏は自ら運転席に座りロードコースを2周、ハンドリングコースを2周走った後、頭をかきながら500メートルをジグザグに走り、スキッドパッドに向かいました。2周を時計回り、2周を反時計回りに走った後、私に運転させできるだけ高速でジグザグに走ることを求められました。鎌田氏に感想を尋ねられ"反時計回りに走った際、車両の安定性が低い"ことは理解できていたのですが、"なぜ?"という問いには答えられませんでした」

鎌田氏は4つのスプリングレートが全て異なることに気づいていた。通常のテスト時は、時計回りでしか行っていなかったのだ。仕様書通りのスプリングを組み込み、もう一度、鎌田氏は自らステアリングを握りたい、と告げられた。

「嬉しかったのは私と一緒にテストしたい、と仰ってくれたことです」と宮崎氏。鎌田氏は宮崎氏ほどアクセルペダルを踏み抜けるドライバーは久しく見ていなかった、とまで言ったそうだ。

「そのような言葉で、私はこの失敗での落ち込みから即座に解放されたものです。そして、私は以前にも増して鎌田氏に感銘を受けました。彼は数秒でS30の不完全さに気づいていたんですから。彼の能力については以前から聞いていましたが、私の期待値を大きく超えていました。と同時に、S30が完璧な車に仕上がることを確信しました。鎌田氏のような人物がかじを取っていれば、そうならないはずがありませんから」

宮崎氏はすぐに横浜の日本発条株式会社に連絡し、前後各10本のスプリングを注文した。早速、納品された20本のスプリングレートを測定してみると、フロント用スプリングのうち仕様を満たしているのは4本、リア用スプリングは3本しかなかったという。

「過熱後、すべてがほぼ同じスプリングレートを持つと想定されていたのですが、実は違ったんです。日本発条はこれ以来、納品前にスプリングのテストをして仕様書通りのモノを手にすることができました」。そうは言うものの、納品されたスプリングの計測は怠らなかった。仕様書通りのスプリングレートである確信なしには、テストする意味がなかったからだ。

S30は当時としては超短期間のたった2年で開発され、日産自動車にとっては全く新しいセグメントへの参入だった。S30が即座にヒットしたことは、エンジニアリングの偉業以外の何物でもなく、そのために多くの努力が払われていた。文字通りすべてを設計、開発、テストする必要があった。重心に対する空力圧力点の位置、ホイールジオメトリの調整、スプリングとダンパー、スタビライザーバーの厚み、風洞での挙動、タイヤの選択、人間工学、ステアリングの重さ、ボンネット下の冷却と気流など枚挙にいとまがない。

S30.Worldの発案者クリス・フィッシャーのコレクションから何台かの240Zに乗ったとき、当初やや控えめだった宮崎氏の顔に笑顔が現れた。彼の中に感情を掻き立てているのは明らかだった。というのも、宮崎氏が日産フェアレディZを最後に運転してから30年が経っていたからだ。S30の市場投入準備が整った頃、宮崎氏は昇進こそしたが、心中は複雑だった。

「主にデスクワークになり、S30のために身体を動かしていた頃に比べると楽しくはありませんでした」と振り返る。もっとも、S30開発時の走行距離が"異常"だったのだが…

「4か月という期間、2台のテスト車両を用いて5万kmの高速走行テストをしました。正式発表直後もテストをしていて、朝8時に横須賀のテストセンターを出発して、浜松空港まで走り夕方5時までには戻る、というものでした。テストセンターに戻ったら検査を行い、夜勤者が午後8時には再度、浜松に出発できるようにしていました」

このタイムスケジュールに合致させるためには、テスト車両は平均約140km/hで走る必要があったという。当時、東名高速道路にはトラックは少なく、簡単に160km/hで走れたそうだ。警察はトヨタ・セドリックやクラウンに乗り、通常約120km/hで走っていた。警察車両に遭遇すると当然、スピードを落とさざるを得なかった。昼食休憩をスキップするために、ポケットには菓子パンを忍ばせていたそうだ。

高速走行テストを経て、開発チームはシャシーのセットアップには満足していた。少なくとも日本とアメリカ市場向け車両については。

「当時、日本の道路事情は今とは比較にならないくらい悪かったため、当時の選択は"これ以外は考えられない"という感じでした。でも、今なら違うセットアップにしていたと思います」と彼は言う。ちなみに240Zはデビューからかなり早い段階で、よりスポーティな足回りが投入された。フロントとリアのスポイラーを含め、特に200km/h以上の安定性についてのオランダを中心としたヨーロッパからの「壊滅的な」フィードバックを受けてのことだった。今だったら、より硬いスプリングとダンパーを選ぶだろうとも。

S30のプロトタイプが完成した際、まだ日産では風洞施設が完成していなかった。設計時の計算では、S30は路面にしっかり張り付くと確信していた。高速走行テストをしたドライバーは誰しもが安定性に満足していた。

「風洞施設がいざ完成してS30をテストしてみると、120km/hでフロントが25mm、リアが15mmリフトすることが明らかになりました。サスペンションは手を加え、リフト量をフロントで20mm、リアで10mmまで下げ、当時のブルーバード、スカイライン、ポルシェ、ジャガー、トヨタ・コロナなどと同等に抑えることができました」

空力特性向上のため、スポイラーが必要なことは明らかだったし、240Zには比較的早く追加された。最初に考えられたのは、フロントノーズに45度の角度を持つ"オーバーバイト"と呼ばれるフロントスポイラーで、触れる風が下向きの力を引き起こすというものだった。

「私たち全員が車の愛好家で、定期的に自分たちのお小遣いでドイツとイギリスの自動車雑誌を買っていました。驚いたことにレースで優勝したポルシェの写真で、前面に垂直なスポイラーがあるのを見かけたんです。当初、その効力を理解できなかったので、比較テスト用に購入した911を用いて実験してみました。すると垂直なフロントスポイラーは、角度のついたものと同じ効果を持つことが判明しました。車両の下を流れる気流を制限して、そこに負圧を作り出していたんですね。そして、S30でも同じ効力を得られることが分かりました。垂直なフロントスポイラーだとフロントノーズとリアスポイラーにより多くの圧力がかかり、十分な地上高も確保できることも判明したので当時は垂直なものを選びました」。垂直フロントスポイラーは車両のデザインに合っていた、とも宮崎氏は振り返った。

高速走行中の整流はボディ外部だけでなく、エンジンルームに流れ込む空気も考慮しなければならなかった。

しかし、高速走行中の安定性はスポイラーだけで達成できるよりも良くなければならなかった。高速での空力特性に大きな影響を与えることが証明されたのは、グリルを通ってエンジンルームに流れ込む空気で、これがボンネット下で相当な上向きの圧力を引き起こした。宮崎氏は言う。

「当時、マーケティング部が"S30は国産車として初めてCd値0.4達成"と謳いたかったんです。Cd(空気抵抗係数)はボディの滑らかさについてすべてを語るものではありません。ラジエーターの厚み、速度域での車両の位置変化、エンジンの重量もCdに影響する要素なんです。しかし、自動車雑誌ではCd値に注目しがちだったので、ヘッドライトに透明なカバーを取り付け、リアスポイラーを取り外した車両でCd値0.398を実現させました。ただ、あのカバーはオプションでしたし、私はカバー無しで実現させたかったのです」。宮崎氏はボンネット内の整流を重要視していた。

「ラジエーターの左右にはたくさんの開放空間があり、大量の空気が入ることを許していました。キャブレターを冷やすために必要だとも考えられていました。ただ調べてみると、あまりにも多くの空気が入り込み、車の底部からほとんど逃げられないため車をリフトさせていることに気づきました。そこで冷却を妨げることなく、どれだけの流入空気を遮断できるかが問題となりました。最終的にラジエーターの横の開口部を閉じ、ボンネット下をはじめとした各所の改良でCd値0.4を達成できたんです」。S30の開発に携わったなかで、宮崎氏が最も誇りに思っている点だとも教えてくれた。

まとめ:古賀貴司(自動車王国)

Words: Ton Roks Photography: Luuk van Kaathoven