
先日のヴァンセンヌ旧車会の定例ミーティングでは、フィアット500をテーマにした特別展示が開催された。春のパリ郊外、ヴァンセンヌ城前の石畳に、パリ近郊から集まったチンクエチェントたちがずらりと並ぶ様は、まるで小さなイタリア映画の一場面のようだった。
【画像】他のフィアット500たちとは一線を画す、西ドイツで生まれた”もうひとつのフィアット500”(写真15点)
そんななかでひときわ異彩を放っていたのが、西ドイツで生まれた”もうひとつのフィアット500”、Neckar Weinsberg 500 Limousette。丸みを帯びたボディにどこかドイツ的な理知性が漂い、他の500たちとは一線を画す存在感を放っていた。
Neckarは、戦後西ドイツの自動車産業再編のなかで、NSUとフィアットの合弁により誕生したブランドである。Weinsbergはそのカロッツェリア部門が手がけたモデル名で、1959年から1963年まで、わずか6,000台ほどが生産されたとされている。そのなかでも、リアウィンドウが直立し、実用性を重視した「Limousette」仕様は、今日では目にする機会が極めて少ない。
ベースとなっているのは初期型のフィアット500(通称:ヌオーヴァ)で、搭載されるエンジンは空冷2気筒・479cc。最高出力は15psを発揮し、車重は約525kgと軽量なため、見た目以上に軽快な走りを見せる。
だがこのモデルの真価は、単なるスペックにあるのではない。Weinsberg Limousetteには、ドイツ的な実用美と工夫が随所に息づいている。リアウィンドウの立ち上がりは後席のヘッドクリアランスを確保し、わずかに引き上げられたフロントボンネットは、スペアタイヤと燃料タンクの配置を見直すことで荷室スペースを拡大。クロームパーツやキャンバストップ、細やかな内装仕上げに至るまで、当時としては贅沢な装備が惜しみなく与えられていた。
仕立ての良さという点では、今回この車を持ち込んだゼルガー氏の仕事ぶりにも触れておくべきだろう。彼が主宰するフィアット500専門店「Parfait État(パルフェット・エタ)」は、名の通り”完璧な状態”を目指すガレージであり、在庫車はすべて、外装・内装・機関系に至るまで徹底的に手が入れられた、いわば”新車同様”のコンディションを誇る。
このNeckar Weinsbergも例に漏れず、オリジナルの持つディテールを丁寧に尊重しながら、すみずみまで妥協のないレストアが施されている。単なる修復ではなく、「当時の佇まいそのままに、いま再び路上に甦らせる」ことを信条とする氏の哲学が、確かに一台一台に息づいているのだ。
ただし、このガレージを訪れるには注意が必要だ。「Parfait État」は完全予約制であり、ふらりと立ち寄っても車両を見せてもらえるわけではない。興味があるならば、まずは事前の連絡を。ゼルガー氏の情熱と、その仕事の真価を知るには、それだけの礼節を持って臨むべきだろう。
静かな石畳の上に並ぶチンクエチェントたち。その中で、Neckar Weinsbergはどこか凛とした表情を見せていた。イタリア車の血を引きながら、ドイツ的な機能美と整然とした構造感覚を備えたその姿は、まさに「もうひとつの500」と呼ぶにふさわしい。
歴史の狭間に埋もれていた一台が、パリ郊外の情景の中で静かに存在感を放っている。その背後には、フィアット500を知り尽くした職人の手仕事と、時間をかけて丁寧に仕上げられたレストアの技術がある。
ヴァンセンヌの春の光のなかで出会ったNeckar Weinsberg──それは単なる旧車ではなく、過ぎ去った時代と向き合うことの豊かさ、そしてクラシックカーに宿る”文化”そのものを感じさせる一台だった。
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI