DJ Kozeが語る、美しい秘密と矛盾多き人生「作品の話ばかりのインタビューは退屈だ」

DJ Koze(DJコーツェ)は矛盾に満ちている、だからこそ素晴らしい。政治、プライバシー、最新アルバム『Music Can Hear Us』について語る、ドイツ・ハンブルクでの一夜。

DJ Kozeとのディナーは実に楽しい。彼が案内してくれたのは、ハンブルク中心部にあるタイ料理店。階段を降り、カーテンで仕切られた部屋に入ると、そこには独特の活気と雰囲気が漂っていた。Kozeはメニューをじっくりと読み込み、まるでそこに隠された意味を探しているかのよう。そして注文したのは、彼がいつも頼むというフォーだった。ビールが二杯運ばれてくると、彼は私の顔を見て笑う。

「初めて君が笑ったのを見たよ」と彼は言う。私はそんなはずはないと思う。午後のあいだ、彼はずっと愉快な話し相手だったのだから。しばらくして彼はビールを飲み干し、どうにも会話に集中できない様子。二杯目が欲しいようだ。何度もスタッフに合図を送った末に、若いウェイトレスが現れる。Kozeは彼女にドイツ語で話しかけ、5分ほどかけて彼女をくすくすと笑わせる。彼女が英語に切り替えて「お客様も何かお飲みになりますか?」と私に訊ねたとき、私は尋ねてみた。「いま話してた人、誰だか知ってます?」 彼女は「いいえ」と答える。Kozeが笑う。今日彼が笑ったのはこれが初めてではないが、これほど伝染力のある笑顔を見たのは、ここ数カ月で初めてだ。

この30年間、Kozeは「それでもなお」幸せを見出す感覚を音楽で描き続けてきた。涙の中の笑顔、嗚咽の合間の笑い――たとえこんな世界であっても、美しさはそこにある。彼のトレードマークであるハウス、テクノ、そしてジャンルの枠を超えたサイケデリアは、驚くほどビタースウィートだ。そして彼自身の物語も、それに劣らず矛盾に満ちている。彼を、インタビューを嫌がり、公の場に姿を現さない”電子音楽界の謎”と分類するのは簡単かもしれない。けれど実際には、彼は多くのジャーナリストと対話してきたし、誰もが「確かに乗り気ではないけれど、話すと面白くて、時間も惜しまず割いてくれる」と口をそろえる。

共に過ごした6時間で、それは確信に変わった。彼は現在、6作目となるソロアルバム『Music Can Hear Us』をプロモーション中だが、冒頭でこう断言した。「作品の話ばかりになるようなインタビューは、いちばん退屈だよ」アルバムのアートワークについては熱心に語ってくれた。それを描いたのは、長年のパートナーであるゲパ・ヒンリクセン(Gepa Hinrichsen)だ。しかし、どこで音楽を作ったのか、制作にどれくらい時間がかかったのか――そういった質問には答えようとしない。「10年って書いておけばいい。場所はフロリダ、日本、オーストラリアとかさ。でっちあげていいんだよ。音楽の裏側って、実はそんなに面白くないから」

彼の音楽は繊細でつかみどころがないが、決して退屈ではない。その音楽は多くの人々を魅了し、ジェイミー・フォックス、ペギー・グー、カリブー、ゴリラズの楽曲の公式リミックス権を彼にもたらし、ロイシン・マーフィーのアルバム全体のプロデュースまで任された。ロビンは、Kozeの2014年のトラック「XTC」を自身の最新アルバムのインスピレーションだと語っている。Koze効果の象徴と言えるのが、2018年のアルバム『Knock Knock』のリードシングル「Pick Up」だ。2コードで構成されたこの名曲は、ここ25年で最高のハウス・ミュージックのひとつと言っていいだろう。「Pick Up」はあまりに素晴らしく、DJたちがこの曲をプレイした瞬間が”伝説”として語り継がれているほどだ。リリース直後、ローラン・ガルニエがこの曲をかけ、バルセロナの観客と7万人以上の配信視聴者を熱狂の渦に巻き込んだこともある。リカルド・ヴィラロボスが2019年のHoughton Festivalでの朝焼けセットを、「Pick Up」のアナログ盤を2枚同時にかけて締めくくったエピソードも知られている。

中でも圧巻なのが、Koze自身がシドニー・オペラハウスでこの曲をプレイする映像だ。ボーカルはロイシン・マーフィー。コードがまるで会話しているかのようで、そのシンプルさが挑発的にすら聞こえる。陶酔感と切なさが等しく同居する響きだ。〈きっとどちらも先に別れを切り出したくないのよ〉とマーフィーが歌う。元ネタは50年前のグラディス・ナイトのサンプル。そこにビートがドロップし、会場は爆発する。観客たちは無我夢中で手を挙げて踊り出す。もしこの映像を家で見たら、あなたは歓声を上げるか、涙を流すか、心の中で葛藤することになるだろう。

DJ Kozeの数奇なキャリア

DJ Koze、本名ステファン・コザラは、1970〜80年代の西ドイツ北部、フレンスブルクで育ったヒップホップ少年だった。父親は弁護士で、音楽に関する最初の記憶は、母が歌っていた「マザー・ラジオ」だと言う――が、それ以上のことは語ろうとしない。「あとは君が物語にしてくれ」と彼は言う。かつて彼は、子どもの頃にモロッコのマラケシュの森でAKAIのサンプラーを抱えたまま発見された、という話をジャーナリストにしたことがある。

90年代には、ハンブルクを拠点とするヒップホップ・グループ、Fischmobの一員として楽曲を制作していた。彼らの1998年のアルバム『Power』は、「もしファーサイドがドイツ語でラップしていたら」というパラレルワールドを垣間見せてくれる作品だ。Fischmob在籍中に、彼は自らをDJ Kozeと名乗るようになる。英語話者の多くは「コージー」と発音するが、Koze自身はかつて「コーツェ」と言っていた。ドイツ語で「kotze(ゲロ)」という言葉に似た発音だ。ただし、今となってはどう発音されようと気にしていないという。

50代に入ったKozeはいま、誰もが「叔父さん」と表現してもおかしくない年齢に差しかかっている。今回のインタビューの冒頭では、ハンブルク随一の現代美術館・ダイクトアホールで待ち合わせをした。スイスの画家フランツ・ゲルチの回顧展を見るためだった。Kozeは言葉ではなく、キャンディで私を迎えてくれた。色とりどりの包みに包まれた、ハードボイルドな(癖の強い)シュガーフリーの飴をいくつか手渡してきたのだ。私はそれを受け取り、ひとつ包みを開けかけたところで、彼に止められた。

「違う違う、それはかなりハードコアだよ。まずはこっちから」と彼は言った。私はアドバイスに従ってピンク色(セージ)のものを口にしたが、誘惑には勝てず、すぐに緑(ユーカリ)に手を出してしまった。口の中が一瞬で燃えるようになり、Kozeはそのリアクションを見て笑った。そしてこう説明してくれた。「すごく刺激的だよ。これで何かを食べたいとか飲みたいっていう欲を抑えられるんだ」展覧会を見て回りながら、Kozeはゲルチのキャンバスに感嘆の声を上げていた。その多くは何気ない日常の光景を、まばゆいディテールで描いたものだ。「彼が壮大とか象徴的なものを描くんじゃなくて、小さなものにフォーカスすることで美しさを見つけてるところが好きなんだ」

Fischmobのあと、Kozeはエレクトロ・ポップ・トリオのInternational Ponyを結成し、いくつかの小ヒットを飛ばしたのちにソロ活動を本格化。以降20年以上にわたってアルバムを発表してきた。2005年には、通常名義でのソロLPと、別名義Adolf Noiseでより実験的な作品をそれぞれリリースしている。英独ジョークの典型を引き合いに出すようで気が引けたが、私は彼にこの別名はナチに関する冗談なのかと尋ねた(両国は過去にかなり深刻な戦争をしている)。「ナチのジョークというより、言葉遊びだよ。ただの語呂合わせさ」と彼は言った。

以前、Kozeはハンブルクのことを「すごく小さくて、退屈で、遠く離れてる」と語ったことがあるが、この街はかつて享楽的な創造の拠点でもあった。ここからほど近い場所で、1960年にビートルズはハンブルクの歓楽街にある複数のクラブで演奏していた。リヴァプールから旅立ったのは、当時のマネージャーの勧めによるものだった。ステージ上のジョン・レノンは、ドイツの観客をからかうようにクシを口元にあててチョビ髭を真似し、腕を挙げてナチ式敬礼をしながら「ハイル・ヒトラー!」と叫んでいたという。これを面白がる者もいれば、そうでない者もいた。後者は時にステージに突撃しようとすることもあり、そのたびにクラブの用心棒ホルスト・ファッシャーがバンドを守っていた。

それから何年も後、1990年ごろ、ホルストの息子であるデイヴィッド・ファッシャーがDMCのDJ大会で審査員を務めていた。その大会に若きDJ Kozeが出場していたのだ。Kozeはターンテーブルを4つのショットグラスの上に乗せ、さらにその上にもう一枚ターンテーブルを重ねて回すというトリックを考案していた。翌年、ファッシャーはロンドンのウェンブリー・アリーナで行われたDMC世界大会に出場し、まったく同じトリックを披露した。「あれは僕のアイデアだ。彼が盗んだんだよ。そして彼が優勝した」とKozeは言う。

政治について、デーモン・アルバーンとの邂逅

話をヒトラーに戻す。「25年前は、あれは遠い昔のことだったから、冗談にできた。でも今はまた現実味を帯びてきてる。だからもう笑えない」とKozeは言う。このやりとりは、ドイツの報道陣とのインタビューを終えた直後に行われたものだった。彼らの多くは、「Adolf Noiseなら、ドイツの極右政党AfD(ドイツのための選択肢)のリーダー、アリス・ヴァイデルに何と言うだろうか」と質問していた。

この会話の4日後、ドイツでは選挙が行われた。AfDはかつてないほどの躍進を見せ、国内第2の政党となった。その結果を受けて、1カ月前の集会でナチ式敬礼のようなポーズをとったとされるイーロン・マスクが、ヴァイデルに向けて祝辞を送った。

「今では、友達との電話で政治の話にならない会話なんて一つもない」とKozeは言う。「昔はくだらない話をしたり、音楽の話をしたりしてた。でも今はいつも『昨日のあれ見た?』って感じだ。昔ならスルーしたり話題を避けたりできたけど――ちょっと退屈だったからね――でももう退屈なんかじゃない。ただただ、やばいって感じだよ」

それでも彼は、前向きであろうとすることには意味があると考えている。なぜなら、破滅を嘆くだけでは「世界は良くならない」からだ。「負けたって言うまでは、負けたことにならないと思ってる。闘い続けるんだ。ブラジリアン柔術でも同じだよ。強制されるまでは、タップしない」

これは、Kozeが何度も口にしているブラジリアン柔術(BJJ)に関する言及のひとつだ。彼にとって最も大切な趣味であり、今では黒帯を取得している。その恩恵については「10時間でも語れる」と言う。「BJJの世界には、僕が何をやっているかあまり知らない人が多いんだ――『ああ、音楽作ってるの?』みたいな感じでね。音楽の界隈より、そっちのほうが友達多いかも」

友達かどうかは別にしても、Kozeは数々のビッグネームと仕事をしてきた。最新作『Music Can Hear Us』のリードシングル「Pure Love」では、デーモン・アルバーンとも共演している。2015年、Kozeはこう語っていた。「俺は全然ゲイじゃないけど、ちょっとだけ、デーモン・アルバーンとなら想像できるかもしれない」

「そんなこと言ったっけ?」とKozeはくすくす笑いながら言う。「彼のことは実際あまり知らないけど、アーティストとしては僕にとってロールモデルみたいな存在だ。どうやって年齢を重ねて品格を保てるかとか、いかにオープンマインドでいられるか、人生を毎日音楽に捧げるってどういうことか、そういう点でね。もちろん音楽的な才能もそうだし、表現力、歌い方……僕にとって彼の声には魔法がある。まっすぐ響いてくる」

2022年、コーチェラで彼はアルバーンと出会った。隣同士のトレーラーにいて、Kozeが2019年にゴリラズのトラックをリミックスしていたこともあって、アルバーンのほうから自己紹介してきた。シャンパンを飲みながらヘルマン・ヘッセの著作について語り、アルバーンは少しだけドイツ語が話せることを披露した。Kozeが言う通り、アルバーンはたしかに品格を保ちながら年齢を重ねているのかもしれないが、そのすぐ後、ビリー・アイリッシュが自身のヘッドライン・セットに彼をゲストとして呼び込んだとき、観客の一部は彼のことをビリーの父親だと勘違いしていた。

ディナーのあと、私は録音を一旦止めて、さらに酒を求めて街を歩いた。Kozeは最近オープンしたアジア食材店にふらりと入り、店内のスナックを眺めながら目を輝かせていた。彼はココナッツをふたつ買ってくれた。そしてレコーディングの裏話を”オフレコ”で話してくれた。詳細はもう忘れてしまったが、ひとつだけ覚えている――それはとにかく奇妙でクレイジーだった。夢から目覚めると、15分の楽曲が彼のノートパソコンに並んでいて、自分の意識がどこかいってる間に録音されていたというような話だった。

高級ホテルのバーに腰を落ち着けると、彼はしばらくのあいだ床の傾きをじっと観察していた。そしてドイツ人のコンシェルジュに声をかけ、本当に地面にわずかな傾斜があるのか確認していた。それが事実だとわかると、まるで世界の何かが一変したかのように、その発見を私に報告してきた。ジン・トニックが二杯届き、私は「Pure Love」でアルバーンが歌っていた歌詞を口ずさむ。〈大丈夫だって言ったけど…それは本当じゃなかった〉私はDJ Kozeに訊ねた。あなたは大丈夫?

「野心的だね」と彼は目を輝かせて言う。「うーん、違うな。大丈夫じゃない。この混沌をなんとか見つめて、整理しようとしてるところなんだ」この混沌を整理するのはあなたの役目?「自分の混沌を整理するって意味なら、そう。それが僕の仕事なんだ。いろんなものと、なんとか折り合いをつけて、心の平穏を手に入れた人間になるってことさ」じゃあ、今はまだ自分と折り合いがついていない?「そう思う。外向きには、平穏に見せかけてるけど、僕にとっては今、けっこう厳しい時期だと思う」

『Music Can Hear Us』に込められた信念

彼の内面の不安の根っこはどこか抽象的だが、もしかすると彼もまた、壊れかけた世界の症状に苦しむ一人なのかもしれない。インタビューは容易ではなかった。真実はつかみどころのない、Shazamでも見つからない曲のように私たちの周囲をふわふわと漂っていたが、それでも実に楽しかった。話題は政治から音楽、スポーツ、コメディへと自由に移り変わった。彼はジョルジャ・スミスとAJトレイシーの新曲を気に入っていて、エイフェックス・ツインの「em2500 M253X」、「Sexy Sadie」(ビートルズ)、アマピアノ(エレクトロニック・ミュージックにおける最後の”地殻変動”)、そしてバーナ・ボーイのことも好きだという。ポップスターのために楽曲をプロデュースしたいという野望もまだ抱いているようだが、そこはKozeらしく、すぐに自己矛盾的な後退が始まる。「白人の男がバーナ・ボーイのためにアフロビーツを作ろうとするだけってのは、もっと大きなアイデアが必要なはずだよ」

彼はハンナ・ギャズビーや、昔のルイ・C・K.(※共に有名コメディアン)のことも好きだという。また、リッキー・ジャーヴェイスのコメディドラマ『エキストラ:スターに近づけ!』もお気に入りで、私たちはそのシリーズで最も傑作な瞬間について語り合った。最終的に意見が一致したのは、ロバート・デ・ニーロがゲスト出演した回だった。スティーヴン・マーチャントがデ・ニーロに「実際にタクシー運転したことありますか?」と訊ね、そのあとで、上下に傾けると服が脱げる仕掛けの女性の絵が描かれたボールペンを彼にプレゼントするあの場面だ。

さらに何杯か飲んだあと、私たちは街を歩いた。偶然にも、今夜の私の宿はKozeの自宅と同じ通りにあり、彼はそのフラットに20年以上住んでいるという。奇しくもそこは、ハンブルクで最も荒れた地区でもある。Kozeは、最近ティーンエイジャーが誰かを撃ったというレストランや、店主がヘロインを売っていたとして摘発されたドネルケバブ店、そして彼の自宅の入り口では、場末の男が売春婦らしき女性と一緒に出てくる様子などを指差して見せた。その光景は、まるで映画『タクシードライバー』のデ・ニーロによる官能的なナレーションを思い出させるようだった。

Kozeは、ハンブルクでは安心して暮らせていると話す。一方で、ドイツの首都ベルリンについては「クソみたいな場所だ」と言い切る。彼は建物の前で少し立ち止まり、私を中に招き入れるべきか迷っているようだった。だが結局、それはやめた――おそらく、Kozeの”謎”の残り香を保つため、ソーセージの作り方を見せないため、あるいは単に酔いを覚ますためだろう。後から彼は私にメッセージを送り、翌朝の過ごし方を提案してくれた。主なおすすめは、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴが初めて一緒に演奏した通り、レーパーバーンへの訪問だった。2月の陽光の中、私はツッカーフライ(シュガーフリー)キャンディ屋の子どものように、その場所をこっそり歩き回った。

だが耳に入れるのはビートルズではなく、『Music Can Hear Us』を選んだ。このアルバムは本当に素晴らしい。聴けば聴くほど、少しずつその美しい秘密を明かしてくれる作品だ。Kozeがこのアルバムにこのタイトルをつけたのは、音楽が今という困難な時代に、私たちが本当に必要としているものを与えてくれるという信念からだ。「音楽は僕らの痛みや運命、陶酔、願望、欲求を感じ取ってくれる。それはある意味で、政治的なものでもあるんだ」

やってみてほしい、読者諸君。5回でも、10回でも、100回でも聴いてほしい。Kozeが、コードや音階やリズムという普遍的で、理解しがたい言語を通じて、あなたに語りかけるのを聴いてほしい。そしてもし、じっくり耳を澄ませたなら――きっと、その音楽があなたに耳を傾けているのを感じられるはずだ。

From Rolling Stone US.