
イギー・ポップ(Iggy Pop)がまもなく再来日。3月30日(日)に千葉・幕張メッセで開催される「PUNKSPRING 2025」にヘッドライナーとして出演。4月2日(水)には東京ガーデンシアターにて単独公演も開催される。パンク界のゴッドファーザーが残した武勇伝の数々を振り返ろう。
極端なやつはいる。伝説的なやつもいる。でもイギー・ポップはそのさらに先を行く。彼は過剰をアートに変えた。自傷行為、露出、自己破壊。彼の危険なまでのパフォーマンスは、観客に「反応」を求めた。参加しろ。さもなければ、そこからいなくなれ――そのセックスと暴力の宴は、ステージが終わっても止まらなかった。イギー・ポップが最も狂っていた瞬間を紹介しよう。
※US版記事初出:2016年4月21日
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1. 『Little Caesar』の表紙でフルヌードに(1979年)
昼間のテレビに出演していたからといって、イギーがメインストリームに迎合したわけじゃない。それは、この地下アートマガジンのカバーが証明している。「俺たちは50歳のアート後援者なんかじゃない」。ニューヨークのライター、デニス・クーパーは自身の雑誌の創刊号でそう宣言している。「俺たちもお前らと同じ若いパンクだ」。クーパーが作ったこのZINEは、途中からジャーナルに形を変えつつ、12号まで続く。その間ずっと、アヴァンギャルドな詩とパンク・グラマーがここで一つになっていた。
その第8号に掲載されたのが、この雑誌を象徴する1枚だ。イギー・ポップが全盛期の肉体で、白黒のフル・フロンタル写真に収まっている。引き締まった上半身の筋肉と、自信に満ちたオーラがまず目を引く。彼のかなり目立つ”アレ”は、むしろ二の次に感じるかもしれない。70年代は終わりを迎えようとしていた。でも、イギー・ポップの歩みは本格的に始まったばかりだった。
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2. イギーとボウイ、『Dinah!』に出演(1977年4月15日)
「イギー・ポップは、今日”パンク・ロック”と呼ばれている音楽の創始者とされています」。昼のテレビ番組の女王、ダイナ・ショアは、驚くほど詳しそうな口ぶりでアメリカ中西部の視聴者にそう伝えた。
パフォーマンスが終わったあと、ダイナはイギーに母親のような優しい口調で話しかける。「あなた、自分を瓶で切ったことがあるのね」。それに対して、イギーはこのとき特にチャーミングに答える。 「そういうのは、ちゃんと治療を受けたよ」。その答えに、観客は笑い声を上げた。
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3.ボウイ、イギーに精神病棟でコカインを差し入れ(1974年)
イギーのソロキャリアは行き詰まり、ドラッグ依存はどうにもならなくなっていた。彼はクリーンになることを願って、あるいは警察の目をごまかすために、UCLAの神経精神医学研究所に入院した。しばらくして、有名な友人が”贈り物”を持って現れた。
「俺たちは病院にドラッグを山ほど持って行ったんだ」 デヴィッド・ボウイは2002年に Blender 誌でそう語っている。 「イギーの具合が悪いって、それしか知らなかった。何日もドラッグをやってないかもしれないと思ってさ、持っていくべきだろうってことになったんだ!」
もちろんイギーの担当医たちは、そのプレゼントを丁重に断った。 「完全に”入り口でドラッグは置いてってください”って感じの病院だったよ」とボウイは語る。ここでの再会がきっかけになって、イギーの人生とキャリアは次のフェーズに向かって動き出すことになった。
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4.「処女の殺害」(1974年8月11日)
ストゥージズが解散したあと、イギーはロサンゼルスに流れ着いた。そこで、Rodney Bingenheimer's English Disco(編注:多くのグラムロック勢が出演したLAのナイトクラブ)で初のソロコンサートを開いた。パフォーマンスのタイトルは「The Murder of a Virgin(処女の殺害)」だった。
「血が見たいか?」 イギーが観客に問いかけると、客席からは肯定の叫び声が返ってきた。それから、イギーの指示で、ギタリストのロン・アシュトンがイギーを何度もムチで打った。さらにイギーは、客席にいた観客に向かって、持ち込んだステーキナイフで自分を刺すように挑発した。だが、誰も手を出さなかった。仕方なく、イギーは自分で胸にX印を切り刻み、そのままステージを終えた。
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5. イギー、バイカーと大乱闘(1974年2月)
1974年2月、デトロイトのバイカーギャング「スコーピオンズ」が、イギー・ポップにとって最も有名な敵になった。ミシガン州ウェインにあるThe Rock & Roll Farmというバーは彼らの縄張りだったが、そのステージに現れたのは、レオタード姿のガリガリの男――イギー・ポップ。もちろん、連中が気に入るはずがない。
スコーピオンズは、不快感をはっきりと示すために、イギーに向かって卵を投げつけた。イギーはそれに応戦しようと観客に飛び込んだが、あっという間にバイカーの強烈なパンチを食らって沈められた。バンドは慌ててステージ裏に逃げ出した。その後、イギーはラジオ局WABXに出演し、スコーピオンズに向けて挑戦状を叩きつけた。「デトロイトのミシガン・パレスでやるストゥージズのライブに来てみろ」。それはストゥージズにとって最後のライブになる運命の夜でもあった。
その模様は、ライブアルバム『Metallic K.O.』に記録されている。このラストショーは、イギーが観客をこれまでで最も激しく挑発し、観客もこれまでで最も暴力的に応えた、まさにそれまでのすべてが集約された夜だった。評論家レスター・バングスは、その状況をこうまとめている。「誰も死にはしなかった。でも『Metallic K.O.』は、投げつけられたビール瓶がギターの弦に当たって砕ける音がはっきり聞こえる、私の知る限り唯一のロックアルバムだ」。もっとも、伝説とは裏腹に、このラストライブにスコーピオンズが現れた証拠は残っていない。
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6. トレドの観客、イギーを無視して顔面から落とす(1974年)
絶頂期のイギー・ポップは、観客に恐れられ、そして従わせていた。だが、ストゥージズのツアーが完全に制御不能になり、コロンビアがイギーとの契約を更新しないと発表した頃、観客はその失速の気配を嗅ぎ取り、バンドに敵意を向けるようになった。
スペイン・トレドでのライブで、イギーは白いメイクに蝶ネクタイという姿で観客にダイブした。だが2度とも、客席はさっと身を引き、イギーは顔面からフロアに叩きつけられた。その観客たちはストゥージズ嫌いで知られるヘッドライナー、スレイド目当てで来ていたのかもしれない。
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7. 自殺ステージの噂が流れる(1973年)
イギーの人生が、暴力とドラッグにまみれた終わりのない渦に飲み込まれていく中で、どんなに常軌を逸した噂でも、本当らしく聞こえるようになっていた。ポール・トリンカ著の伝記本『Iggy Pop: Open Up and Bleed』によると、Rodney Bingenheimer's English Discoでは、こんな噂が広まっていたという。「イギーが、マディソン・スクエア・ガーデンでライブ中に自殺する代わりに、ニューヨークのプロモーターに100万ドルを要求しているらしい」。
だが、アンディ・ウォーホルは別の説を主張した。「イギーは、ニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックで行われる大晦日の特別公演で自殺するつもりだ」と彼は断言していた。実際には、イギーはそのショーで自殺することはなかった。ただ、なぜかその夜の全ての曲を「Heavy Liquid」と紹介し続けたため、バンドメンバーはかなり困惑していた。
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8. ゴリラスーツ姿のエルトン・ジョンにパニック(1973年)
怒れる観客、自傷行為、常軌を逸した量のドラッグ摂取――そんなものでイギー・ポップが怯えることはなかった。しかし、ゴリラスーツを着たエルトン・ジョンは別だった。まあ、誰にだって限界はある。
アトランタでのストゥージズのライブ前夜、イギーはクエールード(※鎮静催眠薬、70年代にパーティードラッグとして人気だった)でぶっ飛びすぎて、茂みで気絶していた。翌日、どうにかステージに立つためにスピードをぶち込んで復活する。ところが、ライブの途中で目の前に現れたのは、毛むくじゃらの脅威。幻覚かと思ったが、それよりもっとヤバいものかもしれなかった。
「マジで『なんだこれ!どうすりゃいいんだ!?』って思ったよ」。イギーは『Please Kill Me』(※パンクロックのオーラル・ヒストリー本)でそう語っている。「戦おうなんて無理だった。立ってるのがやっとだったんだ」。
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9. イギー、うっかりPCPをキメる
ベベ・ビューエル(※ロック界の大物たちと次々に恋愛関係になった伝説的モデル)の友人が、イギーに親切にもショーの前に白い粉を一列差し出した。ケネディ・センターでのライブの直前だった。だが、どうやらコカインとエンジェルダスト(PCP)は、欲望にまみれたジャンキーの目にはよく似て見えたらしい。
そのPCPはイギーの体を完全に動かなくした。けれどイギーは、「ライブは続行する」と譲らなかった。ストゥージズは「Raw Power」のリフを15分ほど引き延ばして演奏し続けた。その間にイギーは担がれてステージに戻され、しばらく意味不明なことをつぶやいたあと、ふらふらと客席に降りていった。観客はポカンとしたままだった。イギーはどうにかステージに戻ろうとしたが、自力では登れず、バンドはその様子を見てゲラゲラ笑っていた。
しかし、最終的にキーボードのスコット・サーストンが手を貸したとき、イギーの体を見て息をのんだ。「奴の胸を見たら、ひどく切り刻まれてて、肉の破片がぶら下がってた。見てて気分悪くなったよ」スコットは後にそう語っている。ただ、その後で分かったことには――誰かがイギーの体にピーナッツバター&ジェリーサンドを押し付けていただけだったらしい。スコットは心底ホッとしたそうだ。
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10. 飼い犬とバリウムを分け合う(1973年8月)
イギーがベベ・ビューエルと付き合っていた頃、彼は意外にも”いい彼氏”になることがあった。料理を作ったり、掃除をしたり、家のことをいろいろ手伝ってくれた。けれど、一方でめちゃくちゃなドラッグまみれの姿を見せることもあった。
ある日、ビューエルが帰宅すると、イギーが浴槽の中で寝ているのを見つけた。両脇には彼女の飼い犬、パペットとファーバーガーも一緒にいて、全員ぐったり意識を失っていた。イギーが目を覚ますと、悪びれる様子もなくこう言った。「バリウムを飲んだんだよ。それで、犬たちにも少し分けてあげたんだ」。
犬たちは無事だった。イギーが「大丈夫だって!」と言い張った通りに。ポール・トリンカによれば、イギーはこう抗議したらしい。「俺は犬が大好きなんだ! 動物には詳しいんだよ!」
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11. 名門ライブハウスで血しぶきを上げる(1973年7月31日)
『Raw Power』のリリースを宣伝するために、ストゥージズはニューヨークの伝説的なライブハウス、Maxs Kansas Cityで4夜連続の公演を行うことになった。そこはアンディ・ウォーホルをはじめ、NYアートシーンの溜まり場でもあった。
そのライブの最中、イギーは観客の上をよじ登っていた。ところが、足元の椅子が滑って倒れ、テーブルにあったグラスを床にぶちまけて粉々に割ってしまった。イギーはそのガラスの山の上に落ち、そのまま切り傷と刺し傷だらけになりながらも演奏を続けた。スタッフはライブを止めようとしたが、イギーはおかまいなしに体を激しく動かし続け、そのせいで血が観客にまで飛び散った。
止血のためにガファーテープ(※舞台で使われる布製テープ)で応急処置を試みたものの効果はなく、デトロイト時代からの仲間、アリス・クーパーが慌ててイギーを病院に運んだ。この負傷が事故だったのか、自傷行為だったのかについては、何年も議論が続いている。
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12. 観客にスイカで脳しんとうを負わせる(1973年夏)
ミシガン州セントクレア湖の、とびきり暑い夏の日。イギーとバンドメンバーたちは、バックステージでスイカをむさぼり食っていた。そしてイギーは、ロンドンから取り寄せたイカした黒いパンツ一丁でステージに飛び出し、バンドが「Raw Power」を演奏し始めると、興奮気味にスイカの残骸を客席に向かって投げつけた。
ポール・トリンカの『Iggy Pop: Open Up and Bleed』によれば、そのときイギーはスイカの皮を観客のひとり――女性の頭に直撃させ、脳しんとうを起こさせたという。だが、イギーはそこで止まらなかった。今度はその高級なパンツの中に氷をカップ一杯ぶち込み、ひとつずつ取り出してはエロティックにしゃぶり、それを観客に向かって次々と投げつけた。
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13. イギリスにパンクのやり方を教える(1972年7月15日)
イギー・ポップがイギリスで初めてライブを行ったのは、Kings Cross Cinemaだった。当時のイギーは、それまで誰も見たことがない、まったく新しいタイプの”恐怖”だった。
このときイギーは、後に『Raw Power』のジャケットでもおなじみになるスタイルを初披露した。銀色のパンツ、グラム・ロックにインスパイアされたメイク、そして目の周りを黒く塗りつぶしたアライグマみたいなアイライン。イギリスの音楽評論家ニック・ケントは、そのときの様子をこう書いている。「イギーはある女の子をつかまえて、その顔を無表情でじっと見つめた。で、彼を笑った哀れなヤツを、もう少しで殴りかかるところだった」。
ギタリストのジェームズ・ウィリアムソンもこう振り返っている。「イギーは観客の上をよじ登ったりして、みんなビビってた。マネージャーが”これ以上やったら絶対に逮捕される”と言って、その後のショーは中止になった」。
このときのパフォーマンスは、観客の何人かに強烈なインパクトを残した。その中には、後にセックス・ピストルズを結成するジョン・ライドンと、ザ・クラッシュを立ち上げるミック・ジョーンズの姿もあった。
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14. クライヴ・デイヴィスのオーディションにて(1971年秋)
デヴィッド・ボウイのマネージャー、トニー・デフリーズがイギーをクライアントとして引き受けたあと、彼はイギーをストゥージズ時代のエレクトラとの契約から解放させた。次のステップは、コロムビア・レコードのクライヴ・デイヴィスを口説き落とすこと。そのために、デイヴィスのオフィスでのミーティングが用意された。
イギーの記憶によると、そのときデイヴィスはこう聞いてきた。「サイモン&ガーファンクルを歌ってみないか?」。イギーは即答で「ノー」。次に、「もっとメロディアスにやってみたらどうだ?」と提案されるが、これにも「ノー」だった。
とうとう業を煮やしたデイヴィスが尋ねた。「誰かに何か頼まれたら、それをやる気はあるのか?」。イギーははっきりと言い切った。「ないね。でも歌えるよ。聞いてみるか?」。
そう言うと、イギーは突然デイヴィスのデスクの上に飛び乗り、そのまま「The Shadow of Your Smile」を熱唱した。これはジョニー・マンデル作曲で、トニー・ベネットがヒットさせたポップソングだった。妙な話だが、そのパフォーマンスが決め手となり、イギーは無事コロムビアとの契約を手に入れた。
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15. ゲロを吐き、アンプにアレを乗せる(1970年8月)
「イギーは歌おうとした瞬間に、いきなりゲロをぶちまけたんだ」。アラン・ヴェガ(スーサイド)は、『Please Kill Me』の中でそう語っている。「マイルス・デイヴィスは、それを見て大喜びだったよ」。同じ夜、ニューヨークのクラブUngano'sでのセットの最中に、イギーはおもむろに自慢のブツを取り出し、それをアンプの上にドンと乗せた。
その後も、彼のステージ史上もっとも奇妙だったかもしれないパフォーマンスが続く。イギーはアンディ・ウォーホル・スーパースターのひとり、ジェリ・ミラーの顔をつかむと、そのまま彼女と金属製の折りたたみ椅子ごとフロアの上をずるずる引きずっていった。
翌年、ニューヨークのエレクトリック・サーカスでのライブで、ミラーはイギーの「ゲロ芸」を思い出し、こう煽った。「ほら、もう一回吐いてみなよ」。イギーは一瞬もためらわず、彼女に向かって盛大にゲロをぶちまけた。
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16. 観客にフェンスをぶっ壊させる(1970年8月9日)
グース・レイク・フェスティバルは、誰がどう見てもドラッグまみれの無法地帯だった。けれど、フェスの主催者たちは、せめてイギーだけはコントロールしようと考えていた。イギーにはステージダイブを禁止し、観客が飛び込まないようにステージ上に警備を配置し、さらに演者と観客の間に木製のフェンスまで設置した。
こうした制約にイライラしたイギーは、観客に向かって叫び始める。「ぶっ壊せ!」――これもまた、ポール・トリンカの『Iggy Pop: Open Up and Bleed』に記録されているエピソードだ。
観客は、もともと暴れたくてうずうずしていたのだろう。イギーの命令に即座に反応し、フェンスの木の板を引きはがし、あっという間にバリケードは崩壊した。その混乱の中、ベースのデイヴ・アレクサンダーは完全にストーン状態で、怯えまくってパニックに陥り、リズムをキープできなくなる。演奏はグダグダになり、曲は崩壊した。ライブが終わると、イギーはブチ切れて、即座にアレクサンダーを解雇した。
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17. ピーナッツバターをシンシナティにぶちまける(1970年6月13日)
イギーの初期キャリアを象徴する最も有名な写真のひとつは、シンシナティ・ポップ・フェスティバルでの一幕だ。上半身裸のイギーが、熱狂する観客たちによって宙に掲げられているシーン。
その直前、イギーはステージダイブで観客の中に飛び込み――これも彼が生み出した革新的なパフォーマンスだ――やがて、どこからともなくピーナッツバターの瓶を取り出す。そして、その中身を自分の胸に塗りたくり、ネバネバの塊を次々と観客に向かって投げつけた。
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18. イギーの公開自傷パフォーマンス、最初の目撃証言(1969年5月23日)
イギー・ポップが自分の体に加えた虐待は伝説になっているが、Creem誌の元編集者ベン・エドモンズによると、彼の公開自傷パフォーマンスは、イギー自身がブッキングしたオハイオ・ウェスリアン大学でのギグから始まったという。
「彼はドラムスティックの破片を拾って、無意識に自分の裸の胸にそれをこすりつけ始めたんだ」。 後にエドモンズはそう振り返っている。「それで、どうやら一回ごとに力を強めていったらしくて、すぐに赤いミミズ腫れが何本も浮かび上がった。そこから血がにじみ出して、胸を伝って流れていったんだ」。
かなりグロい光景だったが、エドモンズがさらにショックを受けたのは、その後だった。イギーがセットのあとに白いTシャツを着たとき、すぐに血が布を通り抜けて染み出してきたのだ。
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19. 初めてステージで”ブツ”を出した日のこと(1968年8月11日)
MC5のフロントマン、ロブ・タイナーの妻であるベッキー・タイナーが、イギーのために特注でパンツをデザインした。それは、タイトなローライズのPVC製ヒップハンガーで、イギーの筋肉質な体にぴったり合うように仕立てられていた。だが、そのパンツはイギーの過激なパフォーマンスには耐えきれなかった。
ミシガン州ロメオという小さな町にあるMothersというクラブでのこと。『Iggy Pop: Open Up and Bleed』によれば、イギーはショーの幕開けから観客席に突っ込んで、犬のように女性たちに腰を振っていたという。
その後ステージに戻ったイギーは、背中を反らせ、体をくねらせてポーズを決めた。その瞬間、ズボンがずるりと落ち、イギー・ポップのアレが飛び出した。すぐに地元の警官たちがクラブに押しかけてきたが、最初は「全裸の変態」をぶん殴るつもりだったものの、結局はイギーを逮捕するだけに留まった。もちろん、これが観客がイギーの”ブツ”を目撃する最後の機会にはならなかったのは言うまでもない。
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20. 初ライブで掃除機とミキサーを演奏(1967年10月31日)
サイケデリック・ストゥージズが初めて人前でライブをやったのは、1967年のハロウィン。ミシガン州アナーバーで開かれたハウスパーティーだった。イギーは、スリフトショップで買ったネグリジェを着て、アルミホイルを切り貼りしたロボット風のカツラ(実は水泳帽に貼り付けたもの)をかぶり、床に座り込んでハワイアンギターを弾いていた。
そのギターは、すべての弦が同じ音にチューニングされていて、次第にイギーはテルミンや掃除機、そして「オスタライザー」と呼んでいたミキサー(半分水が入った状態で回し、そこにマイクを突っ込んで音を拾っていた)で実験的なノイズをかき鳴らし始めた。バンドはその後ろでヘヴィなドローンサウンドをひたすら鳴らし続け、現場は爆音とドラッグと狂気に満ちた、とんでもないカオスになっていた。その場にいたミシガンの重要人物たちの記憶に、強烈に焼きついたのは言うまでもない。
「他に似たようなものなんて、見たこともなかった」。MC5のマネージャーで政治活動家でもあったジョン・シンクレアは、何年も後に作家ジョー・アンブローズにそう語っている。「20人くらいしかいなかったかもしれないけど、本気で怖かった。心の中で『クソッ、これ街の中心部まで音が響いてるぞ』って思ったよ」。
From Rolling Stone US.
イギー・ポップ単独公演
2025年4月2日(水)東京ガーデンシアター
OPEN 18:00 / START 19:00
公式サイト:https://www.creativeman.co.jp/event/iggy-pop25/
PUNKSPRING 2025
2025年3月29日(土)堂島リバーフォーラム
2025年3月30日(日)幕張メッセ
大阪:OPEN 11:00 / START 12:30
東京:OPEN 10:00 / START 11:30
※イギー・ポップ出演は東京会場のみ
公式サイト:https://punkspring.com/