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毎年、多数の選手が新たな契約を結び、年俸の高騰が話題を呼ぶMLB。日本人選手に目を向けると、2024年オフには菅野智之投手、佐々木朗希投手、小笠原慎之介投手らが新たに海を渡った。
ここからは、歴代日本人メジャーリーガーの最高年俸ランキングを紹介していく。時代によって1ドルの価値が変化する様や、日米の年俸格差、そして成功した選手の存在が後続の選手らの契約に与える影響を感じることができるかもしれない。(※年俸は『BASEBALL REFERENCE』と『Spotrac』を参照。1ドル150円で統一した。)
第40位 長谷川滋利
最高年俸:322万5000ドル(約4億8300万円)
対象年度:2005年(シアトル・マリナーズ所属)
1996年オフにアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)と契約した長谷川滋利。異例の金銭トレードという形でメジャー移籍を果たした。
日本球界では主に先発として起用されていたが、1年目の97年からリリーフとしての地位を確立。同年は50試合登板、翌98年は61試合と着実に登板数を増やした。
以降も活躍を続け、2000年には10勝6敗9セーブ18ホールド、防御率3.48とリリーフながら2桁勝利を挙げた。
01年オフにはシアトル・マリナーズと契約。03年はシーズン途中からはクローザーを任され、63試合登板で2勝4敗16セーブ12ホールド、防御率1.48の好成績を残した。
オフには2年総額630万ドルでマリナーズと契約延長。MLB通算517試合登板は日本人最多となっている。
第39位 石井一久
最高年俸:357万5000ドル(約5億3620万円)
対象年度:2005年(ニューヨーク・メッツ所属)
2001年オフにロサンゼルス・ドジャースと3年契約を結んだ石井一久。
1年目の02年から先発ローテーションの一角を担い、28試合(154回)を投じて14勝10敗、防御率4.27をマークした。
03年は防御率3.86と良化したものの、故障離脱も影響して9勝、04年は31試合(172回)を投げ、13勝8敗をマーク。
しかし防御率4.71と安定感を欠き、チームはポストシーズンに進出したが、石井はロースターから外れた。
オフにはニューヨーク・メッツにトレード移籍。同年の年俸は自身最高の357万5000ドルとなったが、けがの影響もあって19試合登板にとどまり、3勝9敗に終わった。
第38位 有原航平
最高年俸:360万ドル(約5億4000万円)
対象年度:2022年(テキサス・レンジャーズ所属)
2020年オフにポスティングシステムを行使し、テキサス・レンジャーズと2年総額620万ドルで契約した有原航平。
メジャー1年目から開幕ローテーション入りを果たすと、デビュー戦で5回3失点の好投。3度目の登板で嬉しいメジャー初勝利を挙げた。
しかし、5月に右手中指の打撲で故障者リスト(IL)入りとなると、検査で右肩動脈瘤も発見され、患部の手術が決定。長期離脱を強いられた。
9月にはメジャー復帰を果たしたが、不安定な投球が続き、無念のDFAとなった。
その後、レンジャーズとマイナー契約を締結。22年オフには日本球界復帰を決めた。
第37位 井口資仁
最高年俸:385万ドル(約5億7750万円)
対象年度:2008年(サンディエゴ・パドレス、フィラデルフィア・フィリーズ所属)
2004年オフにシカゴ・ホワイトソックスと2年契約を結んだ井口。「2番・二塁」で開幕スタメンを勝ち取り、チームの象徴となった「スモール・ベースボール」を体現した。
レギュラーシーズンでは135試合に出場し、打率.278、15本塁打、71打点、15盗塁をマークして地区優勝に大きく貢献。
左右別の相性を見ると、左投手に対して打率.274、右投手に対して打率.279と満遍なく打ち返していた。
ポストシーズンを勝ち抜いて迎えたワールドシリーズでも存在感を発揮し、1年目でチャンピオンリングを手にした。
07年シーズン途中にはフィラデルフィア・フィリーズへトレード移籍すると、オフにはサンディエゴ・パドレスと1年総額385万ドルで契約。
しかし08年は開幕から打撃不振に陥ると、故障離脱もあってシーズン途中に契約解除となった。直後にフィリーズへ復帰。井口の出場はなかったが、チームはワールドチャンピオンに輝いた。
第36位 井川慶
最高年俸:400万ドル(約6億円)
対象年度:2007〜11年(ニューヨーク・ヤンキース所属)
2006年オフにニューヨーク・ヤンキースと5年総額2000万ドルで契約した井川慶。先発左腕として大きな期待を背負った。
1年目の07年は開幕ローテーション入りを果たすも、2度のマイナー降格などもあり、14試合登板でわずか2勝。防御率6.25、67回2/3を投じて15本の本塁打を浴びた。
巻き返しを図りたい08年はわずか2試合の登板で未勝利。09、10年はシーズン前のスプリングトレーニングに招待選手として参加するものの、昇格の切符は掴めず。
09年以降はマイナー暮らしが続き、メジャー登板なしに終わった。
【了】