平山相太さん[写真=須田康暉]

 あの怪物ストライカーは今、大学の教員をしている。平山相太さんは2002年のワールドカップ日韓大会直後のサッカー界における「時の人」「期待の星」だった。

 2003年度の第82回全国高校サッカー選手権では史上最多(当時)の9得点で国見高校の全国制覇に貢献。2004年夏のアテネ・オリンピックを目指すU-23代表の最終予選、本大会にも「飛び級」で招集された。

 「逸材がなぜプロでなく大学に行くのか?」と疑問に思った方も多かったはずで、当時は大きな議論が巻き起こっていた。その後、彼は筑波大へ入学したものの休学(最終的には退学)し、20歳でオランダのヘラクレス・アルメロと契約した。FC東京、ベガルタ仙台でプレーし、32歳で引退を決める。仙台大に入学して「学生」となり、大学卒業後は筑波大の大学院に2年間通った。

 仙台駅から南南西の方向へ30キロほど、宮城県柴田郡柴田町に仙台大学のキャンパスがある。平山さんの教官室に招き入れられた我々が受け取った名刺には「体育学部講師」とあった。彼は2024年の春から、同大学の専任講師を務めている。インタビューの前編では、波乱万丈な競技人生と、大学・大学院への進学という引退後の「進路選択」について聞いた。

インタビュー=大島和人

――平山さんは高校サッカーで史上初の2年連続得点王となり、3年次は国見高の全国制覇に貢献しました。間違いなく「高校No.1FW」でしたが、Jリーグ入りを選択せず、筑波大学への進学を選んだことで議論も呼びました。当時はどういうお考えだったのですか?

平山 自分は中学2年の冬まで福岡県選抜にさえ入らなかった選手です。高校1年でU-16日本代表の合宿に呼んでもらいましたが、まずディフェンスをやらされて、挙句の果てには副審です。高校3年の春くらいまで代表にもなかなか呼ばれないレベルだったので、卒業してすぐプロになれるイメージがありませんでした。あと高校時代は「プロになりたい」という気持ちより、(過酷な練習の中で)毎日生きていくのに必死で……。大学に進学してからプロになれればいいと思っていました。

――筑波大の体育専門学群は教員を目指す学生が多いはずです。平山さんもいずれ教員、指導者になる考えが当時からあったのですか?

平山 そのときはなかったです。学費が安い国立でサッカーも強いし、自分は勉強も頑張っていたので、文武両立という意味でも筑波が一番でした。教職課程は取っていませんでした。

――当時はU-18、U-19の代表だけでなく、オリンピックを目指すU-23代表にも「飛び級」で入って掛け持ちをしていました。かなり過酷なスケジュールだったと思います。

平山 まあ大変でしたね。U-18は自分と同年代で、国見高の同級生だった兵藤慎剛や中村北斗がいて、市立船橋高の増嶋竜也やカレン・ロバートも仲が良くて、そちらは楽しかったです。だけどオリンピック代表は年上だし、プロ選手しかいません。ピリピリした中に入って、こちらはフワフワしている大学生で、精神的にキツかったです。大学の授業にも合宿や、遠征でなかなか出られなかったです。

――筑波では何単位くらい取ったのですか?

平山 確か27単位です。卒業には124単位必要なので、3年までに110を超えるくらいは取るイメージです。だから4年間で卒業単位が取得できるような状況ではありませんでした。

――2年の夏に大学を中退して、オランダのヘラクレス・アルメロと契約します。

平山 自分が高校3年で18歳のときと、大学2年で20歳のときに、U-20のワールドユースへ出ています。二度目のときに「自分は成長していないな」と強く感じて、それが移籍を決めた理由です。

――21歳だった2006年の夏に帰国して、FC東京に加入しました。32歳まで現役でプレーされましたけど、指導者というネクストキャリアを考え始めたのはいつ頃ですか?

平山 26、7歳のときです。監督を見ていると、勝ったら機嫌がいいし、負けたら1週間ピリピリして地獄のようになる。選手とのプレッシャーの違いを間近で見ていて、それを知りたいと思ったのが、最初に指導者になりたいと思ったきっかけです。

――特に影響を受けた指導者はいましたか?

平山 サッカー観を変えてもらったのはマッシモ・フィッカデンティです。イタリア人らしい「カテナチオ」「ウノ・ゼロ」の美学を叩き込まれました。「芝を食べてでも勝て!守れ!」と言われたことを覚えています。

プレスのかけ方を、立ったまま1時間ぐらい説明しながら練習するんです。ウォーミングアップをして、パスコン(パス&コントロールの基本練習)とか、ポゼッションをした後、僕らをピッチに立たせて「こう来たらこう!」とみっちりやっていました。その時間は嫌でしたけど、違うサッカー観を知ることができたという意味では一番です。

――2017年にベガルタ仙台へ移籍して、1シーズンで引退し、仙台大に進学しています。

平山 筑波大は1年半くらい通ったのですが、3分の1以上は欠席せざるを得ませんでした。大学で学ぼうという気持ちがあったのに、授業すら出ていない状況でプロに転向して、その心残りがありました。だから引退をしたら、大学にもう1回行き直したいと思っていたんです。

指導者になろうとするなら、クラブに残ってスクールなどから始めて、ステップアップしていくのが一般的だと思います。でも自分は違う観点から学んで、サッカーの指導に活用したいという考えもありました。

――仙台大へ入学したのはどのような経緯ですか?

平山 まずベガルタで引退するとき、丹治(祥庸/当時仙台強化育成本部長)さんと渡邉(晋)監督に伝えに行きました。「自分は大学に行きたいとずっと思っていました」と話したら、丹治さんと仙台大の吉井(秀邦)総監督のつながりがあって、「同じ宮城県内にこんな大学がある」と紹介してくれたんです。

――引退の発表が2018年1月末ですけど、入試は間に合いましたか?

平山 AO入試の3期は引退発表の後でした。

――学生をしながらサッカー部のコーチもされていましたが、どんな4年間でした?

平山 楽しかったです。18歳で筑波に行ったときより「学ぶ意欲」も高くなっていたと思います。特にスポーツ心理学の粟木(一博)先生の授業は面白いし、すごく楽しかったです。

自分は散々「メンタルが弱い」って言われてきたので……(苦笑)

――「選手のときに聞いておけば」という話もありましたか?

平山 例えばルーティーンの話ですね。自分にルーティーンは無かったですけど、「やってみたら良かったかな」と思いました。

――仙台大に通っている時点で、就職についてはどれくらい考えていましたか?

平山 大学3年生のときまで、卒業後のことはあまり考えていなかったですね。ただ引退したとき「大学で教えたい」という目標を設定していました。さらに4年生になって「もう少し勉強しなければ」と感じたんです。指導者になるにしても、サッカーをもっと詳細に、専門的に知っておきたかった。サッカー以外も勉強したいなと思って、大学院進学を考え始めました。

<後編(学生への指導に活かす…かつての“怪物”が「ふがいない自分」から変わった経験)へ続く>

【平山相太プロフィール】
1985年生まれ 福岡県北九州市出身
国見高校在学時に出場した第82回全国高校サッカー選手権では、当時史上最多となる9得点で全国制覇に貢献。アテネ五輪を目指すU-23代表の最終予選、本大会にも飛び級で招集された。卒業後の進路に注目が集まる中、筑波大学へ進学するも、20歳でオランダのヘラクレス・アルメロと契約。その後日本に戻りFC東京、ベガルタ仙台でプレーし、32歳で現役を引退。仙台大学で改めて学生生活を送り、筑波大の大学院に進んだ。2024年から仙台大学の教員として勤務するかたわら、サッカー部の監督としても指導にあたっている。