我々が取材した車を作り上げたのは、その外観からは想像できない「なにか」を秘めた男だった。
【画像】シュパンのレーシングドライバーとしてのハイライトは、ポルシェ956を駆って1983年のル・マン24時間に優勝したときのことだ(写真4点)
あなたの知人で、ひとつの部屋で12時間をともに過ごしてもまったく気にならない人物はいるだろうか。舞台はフェラーリのテストコースであるフィオラノ・サーキット、登場人物はヴァーン・シュパンと私のふたりだけ…。
1983年ル・マン・ウィナー
フランスのフェラーリ・ディーラーが主催するトラックデイがフィオラノで開催されていたこの日、私たちはヴァーンの車を撮影するために、ここにやってきたのである。それは、もともとスティーヴ・マックィーンが所有していた275GTBで、彼の手でNARTスパイダーに改造されたものを、ヴァーンが再びクーペ・ボディに戻した1台だった。この"マックィーン"275GTBが、2014年のモンテレーでRMサザビーの手によりオークションにかけられたことをご存知の方も少なくないだろう。
フェラーリ・ディーラーの顧客たちが慌ただしく走行を終えてランチに出かけたとき、ヴァーンと私はいい仕事ができると確信していた。このとき、カメラマンのジュリアン・マッキーは「今日は素晴らしい夕陽になるに違いない」と予想。そこで、私たちは陽が傾くまで、さらに5時間にわたって話し続けることになったのだ。
ジュリアンは正しかった。撮影は順調で、ヴァーンが貴重なフェラーリで速い周回を数ラップこなしたころ、エミリア・ロマーニャの地平線に美しい太陽は沈んでいった。あれは、簡単に忘れられるような光景ではなかった。
この頃、ヴァーンはたびたびイギリスを訪れていた。それは娘に会うためだけではなく、この地に住む作家のペイジ・トゥーンと面会するという目的も兼ねていて、そのたびに私たちは顔をあわせ、ヴァーンや彼の奥さんであるジェンと食事をともにしたり、ウォーレン・クラシック&スーパーカー・ショーに足を運んだりした。このショーで、私はいつもヴァーンのことを「1983年のル・マン・ウィナー」と紹介していた。それは、決して悪い触れ込みではなかったが、彼のことを安売りしているように聞こえなくもなかった。もっとも、彼の生涯は実際のところ波瀾万丈の連続だが、そのたびに彼は不屈の精神を発揮させ、数々の困難を乗り越えてきたのである。
F1を目指して
1943年に南オーストラリアのブールルー(その人口は現在も500人に満たない)で生まれたヴァーンは、ワイアラの街で育つと、6歳にして父の膝のうえで車の運転を学び、14歳のときには学校を辞めて家族で経営するガレージで働き始めた。やがてレーシングカートで才能を開花させた彼は、将来レーシングドライバーになることを望んだが、オーストラリアの人里離れた街に暮らす若者がこれを実現するのは不可能に近かった。そこで、ヴァーンとジェンは、地元のヒーローであるジャック・ブラバムが歩んだ道をなぞり、ヨーロッパへ向かうことを決める。やがて少しずつ仲間を増やし、信頼関係を築いていったが、その頃にヴァーンは25歳に近づきつつあって、F1を目指すにはいささか年齢を重ね過ぎていた。
ヴァーンによれば、ブラバムの盟友だったロン・トーラナックは無遠慮にもかつてこう言ってのけたことがあるという。「彼は、はっきりとこう言ったんだ。『ここにいても夢破れて破産するだけでから、故郷に帰れ!』とね」
オーストラリア出身でイギリス在住のモータースポーツ・ジャーナリストだったイワン・ヤングは、もう少し彼に同情的だったらしい。「イワンは最初から私を助けてくれたんだ。ケン・ティレルに紹介してくれたのも彼で、おかげでイギリスでの生活を始めることができた。ケンは素晴らしい人物で、彼よりもモーターレーシングを深く理解している人はいなかった。私のメンターだった人物といっても間違いではないよ」
アレクシスを駆ってフォーミュラ・フォードに挑戦し、パリサーで参戦したフォーミュラ・アトランティックで傑出した成績を残すと、ヴァーンはBRMのテストドライバーとしてF1グランプリでの第一歩を踏み出す。1972年のモナコGPでベルトワーズが優勝するなど、この時代のBRMはまだ戦闘力が高く、ヴァーンは1973年に同チームのレースドライバーとなる契約を交わした。ヨーロッパが冬を迎えると、彼は故郷に錦を飾ったものの、イギリスに戻ったヴァーンを待ち受けていたのは過酷な現実だった。なんと、ヴァーンのものになるはずだったシートはニキ・ラウダに買い取られていたのだ。
それでも1974年にはリッキー・フォン・オペルやマイク・ワイルズとともにエンサインに加入。その後も、エンバシー -ヒルやサーティースで健闘したものの、BRMに騙されたことで、彼が抱いていたF1の夢は潰えたといっていい。シュパンはこう回想している。
「私くらいの年齢になってから、成績を残せるくらいのF1チームに加入することは、ひどく難しいことだった。せっかく掴んだチャンスを一夜にして失ったのは、あまりに過酷な出来事だった。結果的に、ドライバーとしてその一件から完全に立ち直ることは、ついになかった。それがビジネスであり、ポリティクスであることは重々承知していたけれど、そういう出来事をまるで気にしないドライバーはいないはず。私たちにとって、レースで優勝することこそが、純粋に夢だったんだ」
ル・マンに巡り会う
しかし、ヴァーンは失意のまま帰国することなく、様々なレースに参戦するようになる。F5000やインディ(1976年インディ500ではルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得)に挑むいっぽうで、ミラージュでル・マン24時間に出場したことが、このレースに通算18回エントリーする皮切りとなる。このとき、ポルシェ・チームが彼の才能に気づいたことは、彼の人生にとって最良の瞬間だったといっていいだろう。デレック・ベル/ジャッキー・イクス組とともに、伝統の一戦にポルシェ・ワークスチームとして挑んだアメリカ人のアル・ホルバート、ハーリー・ヘイウッド、そしてヴァーンの3人は、決して大本命に位置付けられていたわけではなかったものの、トップ8が956によって独占された1983年に見事、栄冠を勝ち取ったのである。この年、2台はともに371ラップを消化。懸命に追い上げるベルは予備タンクまで使ってトップを走るホルバートの1分差まで詰め寄ったが、ホルバートが駆る956はエンジンが止まった状態でトップチェッカーを受けるという劇的な幕切れを迎えた。ちなみに、3位に入ったクレーマー・ポルシェ(ドライバーはフィリップ・アリヨーとアンドレッティ親子の3人)は、2台のロスマンズ・ポルシェに6周もの大差をつけられていた。
1983年の優勝で、シュパンはチャンスを掴み獲ったのだろうか?「引き続きスポーツカーレースを戦い続けただけだね。もちろん、スポーツカーレースも楽しかったけれど、本当はシングルシーターで戦いたかった。その気持ちは、レーシングドライバーだったら誰でも同じだろう。ただ、それを認めるかどうかだけの違いさ」
その後もモータースポーツと歩み続けたヴァーンは、懇意にしていたバーニー・エクレストンの協力を得て、アデレードでのオーストラリアGP開催を実現させたほか、インディカー・シリーズで活躍するスコット・ディクソンのマネージャーを務めたり、ステファン・ヨハンソンとともにインディ・ライツのチームを運営するなどしてきた。現在、ビジネスマンとしてアデレードとイギリスの二拠点生活を送っているヴァーンは、オーストラリア勲章を受勲し、南オーストラリアのスポーツ殿堂入りを果たしている。
シュパン -ポルシェ962CR
それでも、シュパン -ポルシェ962CRの話題を私から持ち出すのは気が引けた。ちなみに、ヴァーンは「BRMの裏切り行為を受け入れるのはひどく難しかった」と語るいっぽうで、BRMの代表を務めていたルイス・スタンレーについてこんな言葉を口にしている。「その後、たとえ彼が何をしたとしても、F1やCanAmに初めて乗るチャンスを私にくれたのがスタンレーだったことは間違いないし、それを忘れることはできない。962CRの一件とは、比べものにならないね」 ヴァーンが夢に描いていたビジネスは、支援者たちの裏切りによって彼自身を破産に追い込んだ。あれほど荒れ狂い、人に向けて憎悪の言葉を口にするヴァーンの姿は、これまで見たことがない。そうした言葉は、とても活字にできないものばかりだった。
「最初の間違いは、私たちが作ろうとしていた車の値段を見誤ったことにある。ある日本の会社が日本でいちばん高価なロードカーを販売したいと思い、その価格をおよそ1億9000万円(当時のレートで85万ポンド)に設定したんだが、私たちのところに振り込まれる金額は1台あたり35万ポンド(約8000万円)ほどだった」
「それで日本経済が後退し始めると、その会社は何の前触れもなく『20台を買い取るという当初の契約は履行できない。その代わり、売買契約が結ばれ、実際に販売されたときに、1台分ずつ代金を支払う』と言い出したんだ。けれども、月に1台作ろうとすれば、5基のエンジンが工場には届いていて、ACTからは7台分のカーボンモノコックが納品され、そのほかにもレイナードから3台分のモノコックが届いていた。それ以外にも、数えられないくらいのコンポーネントを在庫として抱えていなければいけなかったんだ」
それは、恐ろしいくらいの負のスパイラルだったはずだ。それでもヴァーンは懸命に生産を続けようと努力したが、日本のバブル経済が崩壊し、世界経済が不況になると、日本の支援者は1台あたり150万ドルのオーダーをすべてキャンセルしたばかりか、納車済みの車両代金も支払わないと言い出したのである。ヴァーンが破産を申請し、すべてが終わったときには、ただ6台の962CRが残っているのみだった。
「私は決して許さないだろうし、決して忘れない。私への対応は、まったく恥知らずなものだった。自分たちの利益を守るために、私を犠牲にしたんだ。あれ以来、私は人の見方がまるで変わってしまった。F1で起きたことなど、あれに比べれば”子供だまし”みたいなものだよ」それほどまでに、彼はひどい仕打ちを受けたのである。
編集翻訳:大谷達也 Transcreation: Tatsuya OTANI
Words: James Elliott Photography: Porsche AG