自動車産業に負けない酪農を目指した愛知の「働き方改革」

酪農を含む畜産といえば、長時間労働が当たり前で、休みを取りづらい。そんなイメージを変え、新規就農者を受け入れることに熱心な農家が多い地域はあるだろうか――。そんなテーマで矢坂さんに話してもらうことになったとき、当然のように酪農王国である北海道から語り起こされるものと思っていた。

ところが、矢坂さんがとうとうと語り始めたのは、愛知県の取り組みだった。
トヨタ自動車があり「自動車王国」の印象が強い愛知は、実は酪農が盛んな地域でもある。

もともと、酪農家1戸当たりの乳牛の飼養頭数は、北海道に次いで多かった。理由は、「エサが安いので、どんどん規模が大きくなっていった」(矢坂さん)から。産業が発達していて土地が限られ、牧草地を確保しにくいはずなのに、なぜなのか。

理由の一つ目は、伊勢湾に面した食品コンビナートから、ビールかすやダイズかすといった飼料にできる食品残渣(ざんさ)を安く得られること。二つ目は、名古屋港が近いぶん、輸入の飼料を安く購入できることだ。

さらに、愛知の酪農は単に規模を大きくするだけでなく、所得も高めてきた。「酪農家には、トヨタに負けたくないという意識がある」と矢坂さんは話す。かつての同級生がトヨタやその関連会社に勤めていることが珍しくなく、酪農をしていることで彼らに経済的に負けたくないという思いが強い。

所得を高めるため、単に生乳を出荷するだけでなく、乳牛に和牛の種を付けて生まれてくる交雑種の子牛を売る。今では珍しくないこの取り組みも、愛知では早くに始まっていた。

「酪農家が焼肉レストランを経営して、そこで自前の牛肉を提供するという、6次産業化のようなことが早くから行われてきた。愛知の酪農は規模も大きいし、6次産業化もやっているから、1人当たりの所得がものすごく高かった。一方で労働時間も長く、例えば年間3000時間、つまり寝ている以外はほとんど働いている代わりに、1000万円の所得があるというような、がむしゃらに働いて稼いでいるイメージが昔はあった」

矢坂雅充さん

専業が当たり前の畜産で兼業!?

自分や家族を犠牲にしてがむしゃらに働くサラリーマンは、かつて「モーレツ社員」と呼ばれた。いわば「モーレツ農家」が愛知の酪農を支えた時代があったのだが、そういう働き方を求めていては、就農者が集まらない時代になっている。

「優秀な従業員や独立就農者に来てもらって、愛知県の酪農を盛り立ててもらわないと、後継者がいなくなってしまう。酪農家が集まって、どうしたらいいかとしょっちゅう議論をしているんです。労働時間を短縮しないといけない、休日もちゃんと取れるようにしなきゃいけない、そのためには何ができるか……と一生懸命やっていたんですが、それでもなかなか就農者が来てくれない」(矢坂さん)

そこで始めたのが、地元で空いている牛舎の活用だ。愛知は地価が高いぶん、新規で土地や牛舎、牛を買って独立就農するには、億単位の資金が必要だ。

「愛知は土地の価格が北海道よりも高いから、新規就農者として独立した形で参入するのは難しいんですよね」

現実的な就農の手段は、牧場に就職する「雇用就農」になる。そうやって就農した従業員でも、将来は独立した経営者になりたいと考える人が少なくない。そういう人に対し、酪農家が地縁を生かして空き牛舎を安く借りられるよう手伝っている。

ある農業法人では、従業員である夫婦のうち、妻が空き牛舎を使った肉牛の肥育経営で独立した。夫は農業法人で働き続けていて、繁忙期には勤めの後に妻の経営を手伝う。夫がいずれ退職の年齢を迎えれば、妻の経営に合流することになるだろう。

飼料代は購入する単位が大きいほど安くなるため、農業法人が一括して購入したものを肥育経営でも使う。ふん尿の堆肥(たいひ)化も農業法人で一括して行う。
「空き牛舎という地元の地域資産を再生、活用する形で、親企業の周りにサテライト(衛星)となる小さな畜産経営ができている。これって、兼業経営ですよね」と矢坂さん。

畜産は、農業のなかでも早くに大規模化が進み、専業経営が当たり前になっている。特に肉牛は、雇用をすることが一般的で、従業員が数十人いる経営も珍しくなくない。
そんな時代に、小規模から中規模の、従業員を雇わなくても済む規模で経営をする動きが出てきている。大規模化という時代の流れの逆を行く経営が、地域から求められているというわけだ。

農協が出資し生産の拡大と研修の場に

近年、高齢や資材価格の高騰、乳価の低迷など、さまざまな理由から離農する酪農家が増えている。矢坂さんは「大規模な酪農家でも、高齢を理由にやめる人が出てきている。まだ使える施設は有効活用してほしいと思うし、各地の農協を中心に新規就農者にあっせんすることで活用してもらう動きが出てきている」と話す。

酪農の経営者の平均年齢は50代で、農業全体の基幹的農業従事者の平均である68.4歳(2022年)より若い。それでも、若者に新規就農してもらわなければ、酪農の産地を維持できないという危機感が各地で強まっている。

その結果、ここ10年ほどの間に農協が出資する牧場が各地で生まれた。なかでも台風の目となっているのが、北海道だ。2013年以降、農協や酪農協といった酪農関連の団体が出資する牧場が、次々と設立されてきた。

その理由が、大規模な酪農家の離農だ。
酪農は農業のなかでも、規模拡大が著しく進んでいる分野の一つ。1戸当たりの雌牛の飼養頭数(子牛などを含む)は全国平均が107.6頭で、EUのそれを上回っている。北海道だと156.6頭になる(いずれも2023年)。

これだけ規模が大きくなると、離農に伴って、畜舎や牧草地、排せつ物処理施設などを含む広大な離農の跡地が出現することになる。跡地を荒らさずに有効活用することは、酪農家個人の問題ではなく、地域の問題として認識されるようになってきた。

そこで農協や地元企業が出資し、生乳の生産拡大と新規就農希望者の研修を兼ねるような牧場が設立されている。
道東の標茶(しべちゃ)町に本所を置くJAしべちゃは、離農に伴う跡地を研修のための牧場として保有し、研修生のなかからその牧場で独立就農したいという希望者が現れると売却することを2回、繰り返している(※)。

「独立就農したい人がいきなり3億円といった資金を準備するんじゃなく、まずは研修生として給料をもらって技術を学び、お金と技術の両面で助走する期間を持つ。慣れたところで牧場をリース方式で借りて独立経営者になって、いずれ牧場を買い取っていく。険しい崖を登るんじゃなく、なだらかな坂を上るようにして、一人前の経営者になっていくわけです」(矢坂さん)

ホップ・ステップ・ジャンプの三段跳びに例えると、研修生の期間がホップ、独立就農して牧場をリースする期間がステップ、牧場を購入するのがジャンプといえる。
もともと「参入のハードルが生半可ではなかった」酪農が、このままではいけないという地域の危機感に押されて変わりつつある。

※ 詳細は一般社団法人・日本乳業協会「業界出資牧場等現地実態調査に関する報告書」2022年3月を参照

新規就農者に人気のある地域とは?

どんな地域が新規就農者に人気なのだろうか。矢坂さんは、「酪農家の仲間が多くて、農地が比較的安い」という二つの条件を満たす地域が選ばれやすいという。
北海道で酪農の「銀座通り」といえるのが、十勝地方だ。十勝は土地の値段が高く、既存の農家がもうかっているため跡継ぎがいることも多く、地域の外から新規就農するのは難しい。

「新規就農者は、酪農の『銀座通り』があるようなところではなくて、釧路や根室、江別、札幌の郊外でも旭川寄りといったように若干『郊外』に行く。そういう地域こそ、新規就農者に来てほしいから研修牧場を持って、受け入れる体制を整えています」(矢坂さん)

都府県では、平場の地価が高いぶん、中山間地域を就農先に選ぶことが多い。たとえば関東なら、栃木県北部の那須高原といった高原や、千葉県東部の香取郡や匝瑳(そうさ)郡といった畜産が盛んな地域などである。

「一人酪農」や就職、研修など新規就農のあり方が多様に

「酪農に新規就農する入口が、多様化してきた」と話す矢坂さん。たとえば「一人酪農」があるという。
「これまで、酪農で独立就農するには夫婦でないとと言われてきた。それが、ある農水省の元職員が中国地方で1人で酪農を始めて、2人でなくても酪農ができるということを証明したところがある」

酪農の産地であれば、関連する「サービス事業体」が比較的整っている。人工授精師、蹄(ひづめ)を削る削蹄(さくてい)師、酪農家が休めるように作業を代行するヘルパー、獣医、エサを配合するTMRセンター(給食センター)など。こうしたサービス事業体を活用し、頭数を増やしすぎなければ、1人でも経営を成り立たせることができる。

雇用就農のまま、一つの牧場を管理する農場長になるという選択肢もある。酪農の規模拡大が進んだぶん、農場をいくつも持つ経営体が出てきているからだ。
新規就農の間口は、かつてなく広がっている。