限られた人口の奪い合いから一歩引く人口減少対策

日本の人口は2004年の1億2784万人をピークに減少の一途をたどっている。一時コロナの影響で都市部からの人口流出はあったものの、大都市集中のトレンドはそれほど変わっていないようだ。過疎に悩む地方の自治体は移住者の呼び込みなどを盛んに行っているが、「限られたパイの奪い合い」をしているように見える。

そんな中、少し違った角度から人を呼び込むことを考えた町がある。島根県の中山間地にある人口4000人余りの町、美郷町だ。この町には高校がなく、ホームセンターやドラッグストアもない。数年前にローカル鉄道も廃線になったため、交通の便も良いとは言えない。何か目的がなければ、なかなか足が向くところではない。

美郷町を流れる江の川(ごうのかわ)は中国地方最大の一級河川。雄大な景色は確かに美しいが、広く知られているとは言い難い

「日本の人口が減る中、自治体同士で人の取り合いをしては全員負け組になる。だからこれからは、“滞在人口”“活動人口”という考え方が大事になってくると思います」と語るのは、美郷町の人口対策の陣頭に立つ町長、嘉戸隆(かど・たかし)さんだ。

都会の証券マンから過疎地の町長へ

町長の嘉戸隆さんと美郷町のゆるキャラ「みさ坊」

嘉戸さんは旧大和(だいわ)村と合併して美郷町となる前の旧邑智(おおち)町で生まれ育ったが、県立出雲高校への進学をきっかけに町を離れた。その後、東京都立大学を卒業して大手証券会社に就職。アメリカに留学経験もあり、マーケティングや営業の責任者などとして活躍していた。そんな中、美郷町の前町長が病気のため急に退任することになり、その後を引き継いで2018年11月に就任した。
長く町を離れていた嘉戸さんがまず取り組んだことは、人を呼ぶことに寄与する町の強みとは何か、洗い出すこと。嘉戸さんの言う強みとは、「他から簡単にまねできない競争優位の源泉であり、一定の市場規模があるもの」を指す。

獣害が強みになる

町の強みを探した結果、嘉戸さんが見つけ出したのは「住民が主役の獣害対策」。多くの自治体が悩み解決策を見いだせない中、美郷町の対策は全国の注目を集め、すでに町に多くの人を呼びこんでいた。実際に青森県を除きすべての都道府県から視察が来ているほどで、その競争優位性は明らかだった。
また、「一定の市場規模」という条件にも合致していた。日本全国で甚大な農業被害をもたらしている獣害は、統計上の被害額は最盛期から減少しているものの、有害鳥獣の捕獲数はいまだ右肩上がりで、獣害対策は多くの自治体にとって大きな課題だからだ。

ジビエという特産品ではなく、「獣害対策」という知恵をアピール

さらに獣害対策で捕獲されたイノシシの肉は、「おおち山くじら」というジビエブランドとしても確立されていた。地域の特産品であるおおち山くじらを、ふるさと納税の返礼品などとして大きく打ち出していくことも可能だった。しかし「美郷町の獣害対策は『ジビエでぱっとひともうけ』といった発想とは全く違う」と、嘉戸さんはジビエビジネスに飛びつくことはしなかった。

町内で販売されていたおおち山くじら

美郷町では、害獣を寄せ付けない圃場(ほじょう)づくりや、獣害対策を中心とした地域コミュニティーづくりを実践している。捕獲するのは畑に入ろうとして箱わなにかかった個体だけ。ジビエを生産するために捕獲するのは本末転倒であり、また高齢者の多い地域で大量のジビエを生産していくことは持続可能性がない。嘉戸さんが打ち出したのは、「獣害対策」という美郷町独自の知恵をアピールしていくことだった。

町の女性たちが獣害対策を学びながらコミュニケーションを図る「青空サロン畑」の様子

獣害対策を中心とした“知の誘致”へ

一方で、嘉戸さんにはその取り組みには改善できる点もあるように見えたという。それまでの獣害対策は、町役場で長年獣害に取り組んできた職員である安田亮(やすだ・りょう)さんのアイデアと頑張りに支えられたものだったからだ。そこで嘉戸さんは、属人的になっている取り組みを組織的なものに組み替えることを考え始めた。

町にあるさまざまなリソースを検討した結果嘉戸さんが打ち出したのが、「美郷バレー構想」だ。町には獣害対策に関する情報やノウハウなどの知恵がある。その知恵を生かして“知による知の誘致”を構想したのだ。
「世界の情報産業をけん引するアメリカのシリコンバレーに着想を得ました。美郷町は獣害対策に関する人、モノ、カネ、情報や技術にアクセスできる“獣害版シリコンバレー”なんです」(嘉戸さん)

美郷バレー構想のイメージ図(画像提供:美郷町美郷バレー課)

一般的に、企業の誘致に際して自治体が補助事業や税制優遇などのメリットを打ち出すケースがよく見受けられるが、この美郷バレー構想に関しては、そうしたことは行っていない。あくまで獣害対策を中心とした“知の集積”を求める企業や団体が自発的に集まってくることを目指した。

獣害対策の知を求めて、町に滞在・活動する人が訪れる

移住せずに地域や地域の人々と多様に関わる人々を指す「関係人口」という言葉は地方創生の現場で耳にすることが多い。美郷町の場合は、獣害対策という「ここにしかないもの」で人を呼び、一定期間滞在・活動する人を増やすという方策をとった。

美郷バレー構想を打ち出したことにより、これまで以上に獣害をめぐって産官学民さまざまな人が集まってくるようになった。現在参加団体は企業・大学・自治体など合わせて11団体だ。

獣害関連資材会社の研究開発の場所に

「産」の分野では、獣害対策関連の資材を開発している株式会社テザックと2019年2月に、タイガー株式会社と同年5月に、「山くじらブランド包括的連携に関する協定書」の締結を行った。2社ともに美郷町で製品開発や実証試験などを行っている。

タイガー社員が外国からの視察者に鳥おどし機器の説明を行う様子(画像提供:美郷町美郷バレー課)

また、タイガーは美郷町に中国営業所を置き、中国地方での営業活動の拠点としているほか、定期的な社員研修も美郷町で行っている。

タイガー中国営業所の開所式の様子(画像提供:美郷町美郷バレー課)

このほかにも、光ファイバーの世界シェア2位を誇る古河電工とも協定を結び、町内の各地で獣害対策に関するAIの開発だけでなく、自然災害の発生予測の研究も行っている。

害獣の研究と学生のフィールドワークの場に

麻布大学フィールドワークセンター

「学」の面では2019年3月、獣医系大学として100年を超える歴史を持つ麻布大学と包括協定を締結。2021年4月には町内にフィールドワークセンターも開設し、同学の教授・江口祐輔(えぐち・ゆうすけ)さんが所長として常駐している。学生は一定期間ここで研究や論文執筆などを行う。都会出身の学生が多い中、こうした地方で野生動物の実態を学べるフィールドワークセンターを持っていることは、大学にとってもアピールポイントになる。
卒業後には、研究のために滞在していた学生が、タイガーの中国営業所に就職して移住してきたケースもあるという。

さまざまな立場の人が立場を超えて獣害対策に取り組む

「官」では、三重県津市、兵庫県丹波篠山市、神奈川県大磯町と連携している。共に獣害に悩み立ち向かいながら、地域づくりにも取り組む姿勢を共有する自治体だ。獣害対策に長年取り組むNPO法人里地里山問題研究所も美郷バレー構想に加わり、獣害に関する知恵を共有するなど、各地に美郷町の取り組みが広がるための土壌づくりにもなっている。

こうして、美郷町という舞台にそれぞれの違うアプローチで獣害対策に取り組む人々が集い、それぞれの役割を存分に発揮する。そして分野を超えた知恵や発想を共有することで、新商品開発などの効果も生まれている。
2021年には「おおち山くじら研究所」を開設。所長には麻布大学教授の江口祐輔さん、副所長には美郷町職員の安田亮さんが就任。産官学がそれぞれの立場を超えて獣害対策に取り組む場だ。

おおち山くじら研究所の開所式の様子。写真左は所長の麻布大学教授、江口祐輔さん(画像提供:美郷町美郷バレー課)

美郷バレー構想が立ち上がってすぐコロナ禍に見舞われたこともあり、地域住民と彼らの交流はまだ限定的だ。コロナが一段落した今、若い学生や社員たちが盛んに町内で活動できるようになり、住民たちを活性化してくれることを期待している。
2021年からは「美郷バレー・きゃらバン」という取り組みを開始した。これは、地域や住民グループの獣害に関する相談を受けて、麻布大学やおおち山くじら研究所が点検やアドバイスなどを行うもので、学生のフィールドワークも兼ねている。

美郷バレー・きゃらバンの活動の様子。地域の人たちと学生が共に柵の点検をする(画像提供:美郷町美郷バレー課)

獣害対策、その他の魅力で公式LINE登録者数は住民数超え

もちろん、美郷町は獣害だけの町ではない。
町を流れる江の川がカヌー競技会場になったことをきっかけに、美郷町ではカヌー競技が盛んになった。そのつながりでバリ島のマス村と友好協定を結び、技能実習生の受け入れも行っている。

バリ島のマス村から送られた木彫りの絵

また、「美肌県美肌町」や「長寿県長寿町」といった町の特徴を捉えた商標の登録も行い町の魅力をアピールするなど、内外の注目を集める取り組みにも抜け目がない。

「もちろん、最終的には移住してもらうことを目指している」と嘉戸さんは言う。移住者のニーズをとらえ、住宅の準備や子育て支援のメニューも用意している。
さらに就農支援に関しては、町とJAの出資で設立した一般社団法人ファームサポート美郷が担っており、新規就農者の受け入れ体制や研修メニューなどを充実させているところだ。また、ファームサポート美郷は町内の集落営農法人が管理しきれない農地の保全も行っている。今後はソーラーシェアリングの導入などによる“もうかる農業”も実現するための計画を構想中とのことだ。
こうしたさまざまな取り組みもあってか、町の公式LINEの登録者数は住民の数を超えた。高齢者率が5割近い町なので、町民以外の登録者も多いことが予想される。滞在人口と活動人口を増やすという嘉戸さんの目標達成へ、着実に進んでいると言えるだろう。

毎週水曜に開かれる青空サロン市場は、さまざまな人の交流の場になっている(画像提供:美郷町美郷バレー課)

嘉戸さんは、この成功はトップダウンの考え方からは生まれないと言う。「例えば新しい技術なども、上から課された目標値のために一生懸命やったから生まれるものではないでしょう。住民からのボトムアップで、住民が自分たちのためにやったからこそできたこと。行政はそのお尻をたたかず支援するのが大事です」

自分たちの町にある小さな宝を拾い集め、時代の変化やニーズに応じてしなやかに、したたかに、自分たちの物語を紡いでいく。まさに、「よくある田舎の、どこにもない物語」がここにあった。