マヤ文明の公共祭祀建築と公共広場は紀元前1000年頃に建設された

続いては各文明について。まずはマヤ文明の環境文明史から。中米グアテマラのセイバル遺跡(画像12)の大規模で精密な発掘調査(画像13)と、採掘された豊富な試料を用いた放射性炭素14Cでの年代測定による詳細な編年の結果、マヤ文明に特徴的な公共祭祀建築と公共広場は、従来の学説より少なくとも200年よりも早く、紀元前1000年頃に建設されたことが明らかになり、研究成果が2013年4月に科学誌Scienceに発表された。こちらも記者会見をレポート済みなので、詳しく知りたい方はそちらをお読みいただきたい

画像12(左):マヤ文明に属するセイバル遺跡の1つ。画像13(右):発掘調査の模様(撮影:アリゾナ大学人類学部の猪俣健教授)

この成果により、マヤ文明が近隣のオルメカ文明(メキシコ湾岸低地南部)の一方的な影響により興ったとされてきたマヤ文明の起源に関する従来の有力説とは異なり、より複雑な社会変化の過程が示唆されるようになった。今回の発掘調査から、マヤの人々は、地域間ネットワークに参加して遠隔地から重要な物資を搬入するだけでなく、観念体系や美術・建築様式などの知識を手に入れ、それを取捨選択してマヤ文明を築き上げていったことが考えられるようになったという。

さらに2010・2011年に行われた、セイバル遺跡近郊の湖沼の調査において、ペテシュバトゥン湖、ラス・ポサス湖からマヤ地域で初めて年縞が発見された(画像14~19)。マヤ文明は干ばつで9世紀頃に衰退したという学説があるが、その説は先古典期(前1000~後250年)に干ばつがあったことが明らかにもかかわらず、セイバルは発展し続けたことから矛盾してしまっている。

逆にセイバル王朝が一時的に衰退した5世紀と都市が放棄された10世紀には、干ばつの明確な証拠がない。仮に小規模な干ばつがあったとしても、セイバル王朝の衰退の主要な要因ではなかったようで、今回の環境文明史の研究により、人口過剰や環境破壊、戦争などによって10世紀にセイバル王朝が衰退したことが明らかになっている。

画像14(左):セイバル(Ceibal)遺跡周辺の様子。左下の「Lake Petexbatun」がペテシュバトゥン湖、中央下の「Lake Las Pozas」がラス・ポサス湖。画像15(中):ペテシュバトゥン湖での調査の様子。画像16(右):ペテシュバトゥン湖で採取されたコア(年縞)

画像17(左):ペテシュバトゥン湖で採取されたコアの軟X線画像。画像18(中):ラス・ポサス湖での調査の様子。画像19(右):ラス・ポサス湖で採取された複数のコアとその採取した深さ

なお勘違いされやすいのが、マヤ文明は、マヤ地域全体から見れば、決して9世紀や10世紀に「崩壊」してはいないということ。その後も諸王国が、マヤ低地北部やマヤ高地を中心に16世紀まで興隆しているからだ。マヤ地域には巨大な統一国家がなく、多様な王国が共存していたので回復力(レジリアンス)が高く、マヤ文明全体が崩壊することはなかったのである。この点は、マヤ文明が持つ多様性の強みだという。

また、マヤ文明はスペイン人の侵略によって完全破壊され、ひとり残らずマヤ人が惨殺されたかのような印象を持っている人が結構いるが、これも間違いだ。現在も、800万人を超える末裔が現地で生活している。つまり、マヤ文明は「現在進行形の生きている文化」というわけだ。その証拠の1つとされるのが現在もマヤ語が使われていることで、その種類は30にも及ぶという。石版などに記されているだけの失われた言語ではなく、今も使われているのが、マヤ諸語なのである。