連載の第1回では、日本初の金星探査計画がどのようにして立ち上がり、そして「あかつき」と命名されて宇宙に飛び立つに至ったのかについて、第2回では5年前の金星周回軌道への投入失敗と、そこからどのようにして再挑戦ができる道筋が見つかったのか、この5年間の「あかつき」と運用チームの苦闘を紹介した。

そして第3回では、「あかつき」のプロジェクト・マネージャを務める中村正人さんに、「あかつき」の計画がどのように立ち上がったのかについて語っていただいた。

今回は中村さんに、「あかつき」の開発が始まり、完成するまでの経緯と、また人工衛星のプロマネというのがどういう仕事なのかについて話を聞いた。

(このインタビューは2015年11月19日に行われたものです)

中村正人さん

1959年生まれ。理学博士。JAXA宇宙科学研究所 教授。

1982年、東京大学理学部地球物理学科卒業。1987年、東京大学理学系研究科地球物理学専攻博士課程修了。ドイツのマックスプランク研究所研究員、旧文部省宇宙科学研究所助手、東京大学大学院理学系研究科助教授を経て、2002年より現職。惑星大気とプラズマ物理学が専門。

金星探査機「あかつき」では、計画の立ち上げから先頭に立ち、プロジェクト・マネージャとして開発から運用、5年前の失敗事故への対応、再挑戦に向けた計画策定を率いてきた。

あかつき」が完成するまで

--「あかつき」の開発計画が立ち上がったあと、まずどういうところから着手されたのでしょうか。

中村: 「あかつき」の場合は、提案する前から日本電気(NEC)と一緒に検討して、提案してたんですよ。今のJAXAの仕組みでは、提案が決まってから、調達やら入札やらでメーカーが決まって、という流れになっているでしょ。でもこのころはメーカーが最初からNECに決まっていた。そういうことが許されていたんですね。

僕はメーカーができるということを採用して、できないことは採用しなかった。だから提案書を見たら誰でもその衛星が造れるように設計図が書いてあって、軌道の設計もできていました。ある意味では、2001年の時点で「基本設計」は終わってたんですよ。

あとは細かな設計をやる「詳細設計」という作業が必要でした。2004年からその詳細設計にすんなりと入ることができたのは、2001年の時点で基本設計が終わっていたからです。最初にじっくり考えておくのが大事ということですね

--その後、打ち上げロケットがM-VからH-IIAに変わりましたが、その点で苦労された点などはありますか。

中村: すったもんだしたんですよ。H-IIAはあんな軽い探査機を打ち上げるようには造られていないんです。音の振動が大きくて、探査機が耐えられなかったんです。その振動数が30Hzで、それが太陽電池パドルの共振周波数だったんですよ。だからそのままだと打ち上げ時に太陽電池が壊れちゃうので、それを避けるためにダミー・ウェイトを積まないといけなかった。そのダミー・ウェイトは最終的に「IKAROS」[*8]になりました。

さらに、「あかつき」の内部にも梁を入れて補強しました。質量は増えますが、そうしないとH-IIAでは上げられませんでしたから。

逆にH-IIAになって良かったところは、たとえばモーメンタム・ホイールは、M-Vで打ち上げると振動が苦しくて、ホイールを補強したりする必要があったんですが、「はやぶさ」ではそれが故障の原因になりましたね。でもH-IIAではそういうことをしなくて済んだので、「あかつき」は今日まで部品が全部動いている。それはH-IIAで打ち上げられたことによる、良いところでしたね。

探査機のプロマネという仕事

--ところで、探査機のプロマネという仕事の、責任や仕事の重さは、私たちにはなかなか想像できないところが多いのですが、中村先生はどのようにやられたのでしょうか

中村: 前に、別の計画のプロマネをやられていた方に、「中村さん、あんた変わったプロマネだね」と言われたことがあるんですよ。「ちっとも仕事してないじゃないか」と(笑)。

普通のプロマネというのは、全部やるわけですよ。衛星の隅々までわかっている。すべてのマネジメントを自分でやって、最後の決断も全部自分で下す。それが普通らしいんですよ。

でも僕の場合は、なりゆきでなったということもあって、一生懸命働いたのは最初の3年間ぐらいでした。その中で特に僕が気を使ったのは、「あかつき」は科学衛星であるので、サイエンスの目的というのを工学的に実現可能なところに落とし込んでいかないといけないんですね。だからみんなが何を必要なのかをわからないといけないんだけど、単に文書でやりとりしてはだめで、そのあたりがきちんと伝わっていることを僕が見て、あるいは伝わるように衛星を設計してくださいと指示したり、そういうコントロールはしていたんです。

でも、そこで石井君[*9]が日本に帰ってきたんですね。今、「あかつき」のプロジェクト・エンジニアをやっている石井君は、PLANET-Cの計画が立ち上がったころは米国のジェット推進研究所(JPL)に行っていたんですよ。それで、彼は前から金星探査をやりたがっていたので、石井君が日本に帰ってきてからは「石井君お願いね」と任せました。

それで石井君が「じゃあ俺がプロジェクト・エンジニアをやる」と言って、工学部門のマネージャーを引き受けたんです。そして、僕や他の先生、メーカーとで組み上げた基本設計を精査しなおしたんです。石井君に言わせると「全部俺が造り変えた」らしいんだけど、僕から見ると「あんまり変わっていないなぁ」と思いますね(笑)。でも、詳細設計を詰めてくれたのは石井君でしたし、セラミック・スラスターの採用を決めたのも石井君でした。そういう工学的なところはすべて石井君が決めました。

あと、打ち上げロケットがH-IIAに変わったときは、梁をつけるにも予算がないといけないでしょ。だからそういうときは文科省に「お願いします」と頭を下げに行ったりね。5年前に失敗したときには原因究明の矢面に立ったりとかね。そういう対応はしましたが、実際の設計などは、サイエンスは今村君、工学的なことは石井君に任せました。僕がプロマネをやっている中で、この2人は信用できる、ということはわかっていましたから。

まあ、僕は例にならないですよ。JAXAの職責手当てをもらっているのもおこがましいぐらいで(笑)。

【取材協力:JAXA】

脚注

8. IKAROS……太陽の光の力をセイル(帆)に受けて進むソーラーセイルと、そのセイルに貼り付けられた薄膜の太陽電池で太陽光発電も行う「ソーラー電力セイル」の技術を実証するために開発された実証機。打ち上げ後、セイルの展開に成功し、薄膜太陽電池による発電にも成功。さらに、太陽の光の力により加速していることを実証すると同時に、液晶デバイスなどによってセイルの向きを調整することで軌道制御を行い、ソーラーセイルによる航行技術を獲得する世界初の快挙を成し遂げた。

9. 石井信明さん……JAXA宇宙科学研究所・教授。「あかつき」では工学面の責任者であるプロジェクト・エンジニアを務める。