前回は、私たちが日常生活で“あじ”として感じているものは、嗅覚、特に口腔からこみあげてくる匂いの影響を強く受けることを示した。今回はそれについてもう少し掘り下げたい。

著者は授業や講演でよく次のようなデモを行う。簡単なので、画面の前の方も実際にやってみていただければと思う。

まずは鼻を強くつまみ、鼻孔をふさいでもらう。そのまま、鼻から息を吐こうとしてみてほしい。この時、鼻孔から空気が漏れるようではいけない。そしてそのままの状態でチョコレートをひとかけら食べてほしい。そうすると、甘さとネチャネチャした感触こそすれ、チョコレート特有のリッチな風味がしない。そこで鼻をつまむのをやめると、たちどころに風味が拡がり、甘味も増したような感覚を覚えるはずだ。

匂い分子には2つの経路があり、鼻腔からの匂い分子の経路は「オルソネーザル経路」、口の奥からの経路は「レトロネーザル経路」という。この両経路からの匂いが食べ物や飲み物を強く特徴づけている。

  • 匂い分子の二つの経路

このデモでは、チョコレートをチョコレートたらしめる特徴は嗅覚に依存していること、さらに味覚で感じるはずの甘味も匂いによって増強されることを簡便に実感してもらえると思う。鼻をふさぐとレトロネーザル経路からの匂い分子を含んだ空気が鼻腔に侵入できないが、ふたが取れた瞬間、呼気とともに香気成分が嗅覚受容体まで一斉にたどりつくのだ。

香気成分が引き起こした「負のマリアージュ」

口から鼻に抜けるレトロネーザル経路からの匂いが、食味に強く影響を与える理由については諸説ある。前回、ウニとホヤの例では、固形の食品を噛むことによって食品中の香気成分が表出し、食べ物をくんくん嗅いでも感じられなかった匂いが口中から生じる「フレーバーリリース」を紹介した。ここでは、オルソネーザル経路とレトロネーザル経路の香気のコントラストが感動的で、うま味や甘味を引き立てていた。

一方、オルソネーザル経路とレトロネーザル経路の香りのコントラストによって、平たく言えば「まずい」ことになる例もある。「魚介には白ワインが合う」というのは広く浸透しているが、裏を返すと赤ワインと魚介(特に生ものや魚卵)の組み合わせでひどい経験をした方が多い、ということだと思う。ところで、実は白ワインと魚介でもひどい経験となってしまう例がある。

国内ワイン大手のメルシャンは、ワインの鉄分が魚介の脂質の酸化を促し、不快な魚臭を発生させる”負のマリアージュ”のメカニズムを明らかにした。これは化学変化によってレトロネーザル経路とオルソネーザル経路の香気で著しい差が生じる極端な例だ。

口腔内でワインと魚介に含まれる物質によって生じた匂い分子がレトロネーザル経路から嗅粘膜にたどりつき、想像もつかないまずさを体験することになる。個人的な印象ではビールとひじき、生魚も相性が悪い気がするが、私だけだろうか? ちなみに、魚介とワインの負のマリアージュは油脂によって抑制される。つまり調理法にも依存するのだ。何が何でもワインと魚介は相性が悪い、というわけではない。

唾液と香気成分の化学変化があるのではないか、という話もしばしば聞くが、ワインと魚介のような劇的な変化が、ほかの食品でどの程度起きているかは、私は確信を持てない。例えば、ジュースなど飲料全てに関して、オルソとレトロでの香気成分の差がどの程度生じ、どの程度それが主観的な経験に影響力を持つのだろうか? 今後精査してほしい課題である。

近年、両経路の感じ方が違う、すなわち両者で香気成分が違うはず、という錦の御旗のもとで、レトロの香気成分とオルソの香気成分の差を測定し、食品開発に活かそうとする試みがなされている。口腔内での温度変化や香気成分の凝集性なども関係しそうだ。

認知システムも両経路からの香りの感じ方に影響を与える

これまでは化学・物理的な要因による、オルソネーザル経路とレトロネーザル経路の香気成分が異なることによる効果の違いについてみてきた。ここでは、人間の認知システムも食における嗅覚と味覚の相互作用に影響を与えることを示したい。

先ほど、チョコレートの例でレトロネーザル経路からの匂いは味覚強度にも影響を与えることを述べた。オルソネーザル経路からバニラの匂いを感じるように工夫したカップで真水を飲むと、甘味の呈味物質も香気も舌に触れていないのに、ほのかに甘く感じる。

つまり、レトロネーザル経路からだけでなく、オルソネーザル経路からの匂いでも知覚される味覚強度の増強は生じるのだ。昔は香気成分が味覚の受容体を刺激するのではないかともいわれていたが、我が国の産業技術総合研究所のグループが、舌に香気成分が触れない場合でも味覚に影響を与えることを示した。これにより、味嗅覚の統合された知覚は受容体ではなく、中枢神経、すなわち脳で生じていることが示された。

こう見ると、香気成分が同等であれば経路の違いがないようにもみえるが、両経路からの食品の匂いに対する脳活動を計測し、その違いを見出したドイツの研究グループは嗅粘膜の前方と後方に配置されている受容体の処理が異なるのではないか、という仮説を示している。

昨年、私の研究グループは、呼吸に伴う両経路からの匂いと味覚刺激の時間順序が日常経験と同じであることが、嗅覚による味覚促進にとって重要であることを示し、Scientific Reports誌上で発表した。呼吸という運動感覚との連動も味嗅覚による味わいに係わるということだ。これらの複数の要因が重なり合って、複雑な食品の風味が形成されるのだろう。

  • 実験に用いた嗅覚ディスプレイを装着した著者

食品のおいしさと匂いの関係は非常に密接で複雑である。自分の好きな食品の“あじ”はどれくらい匂いの影響が強いのか、たまには鼻をつまんで試してみるのも一興かと思う。