超伝導方式をはじめ、量子コンピューターは世界中でさまざまな方式による研究開発が進められているが、実用化には規模の拡大や計算中に発生するエラーへの対策などの課題が存在している。これらの課題を克服できるとして、近年注目を集めているのが、原子1個1個を量子ビットとして用いる「中性原子方式」だ。

この中性原子方式の研究開発を牽引する分子科学研究所(分子研)が、日本初、かつ世界でも数少ないフルスタック型中性原子方式量子コンピューターを稼働させ、「春海」(しゅんかい)と名付けたことを8月24日に発表した。

同成果は、分子研光分子科学研究領域の藤川武敏特命専門員、同・富田隆文助教、同・大森賢治教授らの研究チームによるもの。

  • 分子研で稼働した日本初のフルスタック中性原子量子コンピュータ「春海」(撮影:富田隆文氏) (出所:分子研Webサイト)

    分子研で稼働した日本初のフルスタック中性原子量子コンピュータ「春海」(撮影:富田隆文氏) (出所:分子研Webサイト)

中性原子方式量子コンピューターとはなにか

現在稼働している量子コンピュータはまだ開発の初期段階であり、実用的な性能を持たせるには、大規模化(量子ビット数の増加)や、計算中のエラーに対処する量子誤り訂正機能の実現が不可欠とされる。そうした中、これらの課題を解決できる有力な方式として期待されているのが「中性原子方式」だ。同方式には、以下の優れた特徴がある。

  • 極低温を保つ巨大な希釈冷凍機を必要とせず、室温環境下で動作する
  • 量子ビットである原子を移動させ、任意の量子ビット間に「量子もつれ」を実現できる
  • 計算アルゴリズムに合わせた柔軟な量子ビットを配置できる
  • 量子ビット数を増やすのが比較的容易である
  • 量子ビットが情報を保持できる時間(コヒーレンス時間)が長い

日本国内でも多様な方式の研究開発が進められているが、中性原子方式は、内閣府/JSTムーンショット型研究開発事業の目標6「誤り耐性型汎用量子コンピュータの実現」における研究課題の一環として、分子研の大森教授が「大規模・高コヒーレンスな動的原子アレー型・誤り耐性量子コンピュータ」のプロジェクトマネージャを務めて研究・開発が進められている。その成果として、今回の「春海」の稼働に至った。

なお、ここでいう「フルスタック」とは、ユーザーからの入力を制御信号へ変換し、計算の実行から結果の出力までに必要な複数の構成階層(スタック)を統合したシステムを指す。一般のPCやスマートフォンなどもフルスタックシステムの一種だ。

また「春海」の内部では、対物レンズでレーザー光を絞り込んで生成する「光ピンセット」によって、量子ビットとなる原子を格子状に捕捉し、マイクロ波やレーザー光を原子に照射して量子計算を行う。計算結果は、カメラを通じて原子1個1個の蛍光を観測することで読み出される仕組みだ。

春海の特徴と開発体制

春海の開発ではプロジェクト内の産学連携を活用し、ソフトウェアスタックを分子研と日立製作所が、計算を行う量子処理ユニット(QPU)スタックを分子研と米・Infleqtion社がそれぞれ共同開発した(両社はいずれもプロジェクトの課題推進者)。

なお、「春海」の名称は、日本で初めて独自の暦法「貞享暦」を開発した江戸時代の天文学者・渋川春海に由来している。天球上の天体運行の計算が、量子ビットの状態を表す「ブロッホ球」上での制御を想起させることや、精緻な計算に基づき新たな暦を生み出した姿になぞらえ、正確な量子計算の実行を願って命名したという。

  • フルスタック中性原子量子コンピュータ「春海」のレイヤー構造 (出所:分子研Webサイト)

    フルスタック中性原子量子コンピュータ「春海」のレイヤー構造 (出所:分子研Webサイト)

2026年4月から第二期に入った大森ムーンショットプロジェクト「中性原子型誤り耐性量子コンピュータ」では、インテグレーション技術や制御系の開発・高度化、誤り耐性に向けた高度化と大規模化、高忠実度量子計算を長時間継続できる高安定化のための運用などの研究が進められる。

最終年度の2030年度までには1万物理量子ビットを実装し、外部ユーザーが利用可能な量子誤り検出・訂正機能を備えた大規模かつ高機能な中性原子型誤り耐性量子コンピュータの実現をめざすとしている。

また「春海」は、現在の初期段階では50量子ビット程度を使用しており、今後は500量子ビット程度まで規模が拡大される予定だ。さらに、部分的に外部ユーザーへの公開が行われ、アプリケーションの開発や量子誤り訂正の実証・高度化をめざすという。また、大森教授が創業者兼エグゼクティブアドバイザーを務めるスタートアップのYaqumo社とは、量子コンピュータの社会実装及び高度化の観点から連携を進める予定とした。

大森教授は、今回の春海の稼働に対し、以下のようにコメントしている。

「中性原子方式の量子コンピューターは、開発が先行する超伝導方式の限界を超え得る新しい方式として、最近世界中で急激に注目を集めています。この最先端方式において、私たちが日本初、世界でも数少ないフルスタック量子コンピューターを開発し稼働させたことの意味は非常に大きいと思います」(大森教授)

「今後、たとえば理論・ソフトウェア研究者の外部利用による誤り訂正技術の開発、さらには企業の研究者による実用的な応用に向けた外部利用等によって、世界中の産学官のさまざまな分野への波及効果が期待されます。また、春海と分子研既存のスパコン共同利用施設を融合させた量子-GPUハイブリッドコンピューティングセンターへの発展も期待されます」(同)