大阪大学(阪大)は5月13日、レーザー光とマイクロ波を照射することで温度に関係なく「核スピン偏極率」を増大できる「光励起三重項(トリプレット)状態の電子スピンを用いた動的核偏極(DNP:Dynamic Nuclear Polarization)法」、略して「トリプレットDNP法」によって、試料を室温に保ったままNMR信号の強度を飛躍的に増大させることに成功したと発表した。

成果は、大阪大学基礎工学研究科システム創成専攻電子光科学領域 博士後期課程3回生の立石健一郎氏(現・理化学研究所研究員)、同・根来誠助教、同・香川晃徳助教、同・北川勝浩教授、同・大学 理学研究科化学専攻の西田辰介研究員(現・愛知工業大学 工学部研究員)、同・森田靖准教授(現・愛知工業大学 工学部教授)らの研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、米国時間5月12日付けで米科学雑誌「米科学アカデミー紀要(PNAS)」に掲載された。

「核スピン」とは、例えて卯なら、原子核の持つ微小な磁石である。その核スピンから発せられる電磁波信号を解析することで、試料内部の原子レベルの構造情報を知ることが可能だ。これを利用しているのが、医療ではMRI(核磁気共鳴画像)、化学分析ではNMR分光と呼ばれるものである。

核スピンの磁気エネルギーは非常に小さい。そのため、室温では熱擾乱(ねつじょうらん)に負けて向きがほとんどバラバラになっており、発生する信号はほとんどが打ち消しあって非常に弱くなってしまっている。発生する信号の強度は、スピンの向きがそろった割合である「偏極率」に比例し、NMRやMRIの感度もこれに比例する形だ。

具体的には、NMR分光が通常行われる室温下で10テスラの磁場中では、水素核スピンの熱平衡状態の偏極率は約0.0034%、MRIが通常行われる3テスラの磁場中では約0.001%という非常に小さな値である。この偏極率を数10%まで大きくすることができれば、NMRやMRIの感度は飛躍的に向上するというわけだ。

マイクロ波を照射することによって、熱平衡状態の偏極率が水素核スピンよりも660倍高い「電子スピン」(電子の持つ微小な磁石)と同程度に核スピン偏極率を増大できる「動的核偏極(DNP:Dynamic Nuclear Polarization)」と呼ばれる方法が注目を集めており、世界中で研究が進められている。

分析したい有機分子を、不対電子を持つ分子(ラジカル)を少量添加したガラス状物質に溶かしておくと、DNPによってNMR分光信号の強度を増大させることが可能だ。また、高偏極化された物質を溶かして体内に注射し、その物質の代謝をMRIで調べることで、がんを診断するという応用も考えられており、臨床研究が進められている。

しかし、熱平衡状態の電子スピンを用いる従来のDNP法では核スピン偏極率の増大率は660倍が原理的な限界で、偏極率を10%以上に高めるためには、マイナス270℃以下の極低温下で電子スピンの向きをそろえてからDNPを行う必要があり、低温で劣化する材料や生体物質などには使えないという課題があった(画像1)。また、極低温にする装置やその運転に多額の費用がかかっていたのである。

画像1。従来法と本方法の比較

そこで研究チームは今回、レーザー光とマイクロ波を照射するという仕組みを取り入れ、温度に関係なく核スピン偏極率を増大できるトリプレットDNP法を開発。試料を室温に保ったままNMR信号の強度を飛躍的に増大させることに成功したのである。

「ペンタセン」(画像2)などの有機化合物は、光を照射した時に電子スピンの向きが温度に関係なく非常に偏った「励起三重項状態」が現れるのが特徴だ。励起三重項状態とは、光の照射により電子の軌道が励起された状態になり、その後に一部の電子スピンの状態が3種類に変化した状態のことをいう。このような物質を試料に少量添加してレーザー光照射後にDNPを行えば、温度に関係なく核スピン偏極率を増大させることが可能だ(画像1)。

今回の実験では、ペンタセンを0.05モル%添加した「p-ターフェニル」(画像2)の単結晶において、水素核スピンの偏極率を34%に増大させることに成功した。実験は0.4テスラの磁場中で行われており、その磁場で室温の熱平衡状態に比べて25万倍に水素核スピン偏極率を増大したことになる計算だ。

これは従来法の理論限界である660倍をはるかに超える値で、トリプレットDNP法によりNMR信号強度が飛躍的に増大することを実証している。今回の研究ではDNPへの核スピン格子緩和の影響を理解し、それを抑制するために、全重水素化ペンタセンと新たに有機合成化学者との共同研究で開発された位置選択的同位体置換物質(画像2)が用いられており、それらによって高偏極率が達成されたとしている。

画像2。構造式

今回得られた水素核スピン偏極率34%は、室温下で通常のNMR分光で用いられる10テスラの磁場中の熱平衡状態に比べて約1万倍、MRIでよく用いられる3テスラの磁場中での熱平衡状態に比べて約3万倍高い偏極率だ。トリプレットDNP法を用いることで通常のNMRに比べて感度が約1万倍向上し、従来の1万分の1の微量な試料の分析が可能になることを意味するという。また、トリプレットDNP法は従来法と異なり極低温装置が不要なため、実用化されれば大幅なコストダウンが期待されるとした。

さらに今回の研究は単結晶試料で行われたが、今回の研究に先駆けて「トリプレットDNP法」がガラス状物質でも可能であることが示されている。ガラス状物質にはさまざまな物質が添加可能で、この時に高偏極化された添加物質は「2,3,4-トリフルオロ安息香酸」と「5-フルオロウラシル」で(画像2)、後者は抗がん剤として用いられている物質だ。今後、さらにさまざまな物質が高感度化されれば、NMR分光法の応用可能性が拡がるという。そこで、ガラスホスト物質や光励起三重項状態を持つ添加物質の改良が必要で、今後は有機化学、材料科学的アプローチの研究が重要となるとした。

そのほかにも、今回の研究で得られた室温下で大量の核スピンが高偏極化された試料は、加速された原子核や素粒子を用いた散乱実験の標的物質や磁気相転移の「量子シミュレータ」として用いることも可能だとする。量子シミュレータとしては、光格子中にトラップされた冷却中性原子集団を用いた方式が有名だ。しかし、結晶中の核スピン多体系も高偏極化することで磁気相転移の量子シミュレータとして利用できることが知られている。このように今回の研究成果は基礎物理学、化学、材料科学、生命科学、医学などの幅広い分野への貢献が期待されるとした。