国家権益に翻弄されるグローバルなテクノロジー企業

この半年くらい、何度となく報道されたQualcommをめぐる2つの買収劇は、次のような形であっけなく終幕した。

  • BroadcomによるQualcommの買収がとん挫:米国政府が安全保障上の理由からBroadcomの買収を阻止。Broadcom自体はシンガポールに本社を置く米国系の企業であるが、米政府のCFIUS(対米外国投資委員会)による買収阻止の裏にはBroadcomと関係の深いファーウェイなどの中国企業の存在が影響していると言われている。
  • QualcommによるNXPの買収がとん挫:携帯端末に強いQualcommが自動運転などへの事業展開を狙って戦略的に仕掛けた欧州企業NXPへの買収計画であるが、中国独禁当局が独禁法上の理由で承認を保留し、結局時間切れでQualcommはNXPの買収を諦めるというあっけない終幕となった。中国独禁当局は「本件は阻止したのではなく、追加資料提出を求めて保留」、としているが、これはかなり長い間準備した戦略的買収計画でQualcommは各国の独禁当局の承認を取り付けたが、結局中国が政治的判断で待ったをかけたというのが大方の見方である。

この2つの買収計画の失敗に現在ヒートアップしている米中の貿易摩擦が関係しているのは明らかである。この状況は我々が属しているテクノロジー産業が国際関係上の政治判断の大きな流れにあからさまに巻き込まれるという新しい時代に突入したことを如実に語っている。こういったケースは過去にも日米の半導体・電子機器・自動車をめぐる貿易摩擦の歴史で経験されたことではあるが(日米半導体摩擦については過去の記事「吉川明日論の半導体放談 第25回 半導体のグローバル戦略における中国の存在感」をご参照)、最近とみに感じるのは国家間の摩擦の中でテクノロジーがらみの事件が増加している点である。

今回のQualcommの件では、NXPの買収がなかなか進展しない状況に業を煮やした株主がQualcommのCEOに「何とかしろ!!」と迫ったところ、CEOは「これは最早ビジネスの領域を超えており、地政学的な政治問題だ。残念ながら我々ビジネスマンにはどうしようもない」、とその苦しい心情を訴えるという異例の展開となった。結局Qualcommは戦略的に極めて重要とされてきたNXPの買収を多額の違約金を支払って断念せざるを得なかった。

国際関係を論じる場合に国力を示す具体的な判断基準として従来の場合、「軍事力」、「経済力(GDP)」、「人口」の3要素があげられてきた。歴史・国際関係論の授業などでよく使われる「地政学上の問題」というのは、典型的には地理的な位置関係により政治的、軍事的な緊張の高まりが増加する場合などに使われる。しかし、ここで我々が目にしているのはテクノロジーに関する地政学上の政治問題である。テクノロジーは物理的な土地などを持たないから、この言葉自体が自己矛盾のような気がするが、最近米国の政府関係者の間では「Geo-Technology(技術の地政学)」という言葉がよくつかわれているらしい。

今やテクノロジーはその国の国力を大きく左右する要因の重要な部分を占めているということである。このQualcommのケースでは、Qualcomm(米国企業)とBroadcom(シンガポール企業)、NXP(欧州企業)間の買収劇に中国政府が大きな影響を与えたという点で一見奇異に見えるところが特徴である。「複雑に入り組んだサプライチェーン・システムの中でグローバルに事業を展開するQualcommのような企業にとって、国家の利益、国家の安全保障というのはどのような意味を持つのか?」、という問題はこれからのグローバル・ビジネスで増々意味を問われる課題となる。

  • 新聞のトップニュースにはテクノロジー関係の記事がおどる

    新聞のトップニュースにはテクノロジー関係の記事がおどる (著者所蔵イメージ)

自国産業を国産化しようと躍起になる中国、技術流出に身構える米国

最近大きな話題となった事件に、元Appleの社員がFBIに逮捕されるという事件があった。報道によれば、事の顛末は次のようなことであったらしい。

  • 中国に渡ろうとしていた元Apple社の社員という中国系の男性エンジニアが、FBIにより出国直前にシリコンバレーの玄関口であるサンノゼ国際空港で逮捕された。
  • その男性への嫌疑は、「自動運転に関するAppleの企業秘密を中国の振興電気自動車(EV)メーカーに横流ししようとした」、というものであるらしい。
  • 問題となった中国の新興EVメーカーには中国ITの巨人Alibabaも投資している。Alibaba自体も現在EVには大きな投資をしていて、シリコンバレーで自動運転分野のノウハウを持つエンジニアを積極的に募集している。

詳細は明らかにされていないが、これだけの情報を見ただけでも自動運転の技術開発を巡って各企業が国家を巻き込んだ丁々発止の活動をしていることは容易に想像される。自国のEV技術の国産化を急ぐ中国と、知的財産をいとも簡単に持って行かれるという事態に懸念を抱く米国とのせめぎあいが背景にあることは明らかである。「産業スパイ」というかなりクラシックな響きとともに、大きな報道となって自動運転技術の開発をしている事実が明白となる危険を冒しても、FBIに頼ってまで技術流出を阻止せざるを得なかったAppleの窮状は押して図るべしである。

義業スパイ事件で思い出すのは、IBMメインフレーム・コンピューターの技術情報の取得に関する件で、日立製作所、三菱電機のエンジニアがFBIのおとり捜査に引っかかり逮捕されたという事件である。事件の発生は1981年で、数年後に企業間の和解という形で終息したが、当時まだ若かった私にとって、「産業スパイ」、「FBIのおとり捜査」、などの言葉が日本を代表する企業名と関連して報道されたのには非常に驚いた記憶がある。その後の日本企業の半導体・コンピューター分野での破竹の勢いを予感させるような象徴的な事件として私には記憶されている。

米中の貿易摩擦がさらに拡大し、事態は米中以外のグローバル経済にまで影響を与えるという懸念が金融市場にもすでに表れている。今回、米国の相手となるのは日本の代わりに中国であるが、Qualcomm、Appleの事件で影響を受ける産業は半導体、コンピュータ、通信、自動車などの非常に広範な産業を巻き込んでいて、その経済活動の総体規模は40年近く前の日立、IBMの事件とは比べ物にならないほど大きい。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。

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