酔いという「リスク」への懸念

――直近、トヨタ社内でVR/MRの活用について新しいトピックはありますか?

私が担当しているMRを使っている部門以外にも、VR/ARを活用している部門は複数あります。そこで、”X”Rの現場への導入、認知向上の次の展開として、「HMDの安全な活用」の啓蒙活動を実施しました。今回お話したいと思っているのはここにかかわる部分です。

まず安全健康推進部を巻き込んで、2015年にはMR HMD装着時の1回あたりの連続利用時間や健康診断結果からのMR業務利用制限など、社内規則を策定しました。

MRの利用者は工場の設計者、つまりデジタルやHMD方面の「素人」ですから、最初の体験が大切であり、またその日の体調によっては酔いの感じ方も違います。HMD装着者の体調を客観的に判断し、必要なら利用を中止しないと危険ですから、必ずだれか担当者がアテンドするように、各部ごとに作業要領書を作って運営してもらっています。

VR/ARの産業利用が広がりを見せ、事例が増えること自体は喜ばしいことですが、正しい装着をした上で体験してもらうことが肝心です。一度酔いを体験するとそれがトラウマになり、その後どんな改良が行われても、被り物全体を拒否されてしまうことになりかねません。正しい利用を徹底すべきと考え、産業医によるVR/ARの利用現場の巡視を始めました。ハードウェア、映像、利用法や利用環境(部屋)などを見てもらい、安全健康面でチェックする要素を洗い出し、社内規の見直しも始めました。動き自体は9月から行っていて、11月に巡視の日程調整へ入ったところです。

  • VR体験中のイメージ画像

    HMDを用いた産業向けのシステムも出そろってきたが、メーカー、システムベンダー共に利用のガイドラインを明確化しているところはない

――トヨタ社内で、何かVRを原因とした健康面のトラブルがあったのですか?

いいえ、MR/VR利用による健康被害と思われる事案は現状ありませんし、昏倒など重度の健康被害は発生していません。ただ、ユーザー側で、HMDの装着が軽度の体調不良の原因としては認識されていないのではないか、という懸念もあります。

昨今はVRのエンタメ利用も広がっていますが、いわゆる「VR酔い」というリスクについて、あまりにも注意が払われていないように感じられます。元々は、社内展示会での配布資料として酔いについて調べ始めたのがきっかけですが、まだ多くのことが明らかになっていない中、利用だけが急激に広がっているというのが実感です。

近年増えてきているアーケード型のVR体験施設では、1回の体験時間も短く利用できる回数も限られています。ですが、業務の場合は週に何日か、まとまった時間でHMDを使うことになります。そこで、産業医目線でHMD装着に問題があるかチェックしてもらったところ、回答は「(慣れれば感じなくなるかもしれないが、多くの人は)酔うだろう」というものでした。

昨今のVRブームの加熱について

――かなり慎重な視点ですね。

VRに限らず、新しい技術に関しては、問題が起こるまでリスクは軽視されてしまう傾向があります。また、安全健康のためにMRを薦めてきているのに、MRを使うことで問題が起きてしまうなどあってはならないことです。

エンタメ方面では、FPSのようなHMD装着で歩き回るものや、ジェットコースターとの併用など、VRの映像と体の動きを連動させる体験が増えていますが、酔いのメカニズムがまだ分かっていない中でアクティビティを拡張し続けるのは危ういと感じてしまいます。

スペインでは、2017年7月にHMDをかぶるジェットコースターが急停止した事故があり、けが人が出ました。視界がふさがっていたので乗客が気づかない中で事故が起こり、耐衝撃体制が取れないままだったことは大変恐ろしいですし、怪我の重症度にも少なからぬ影響があったものと考えます。実際の環境と一切異なる映像を見せることの危うさを感じた事例です。

今はVRはじめHMDをかぶって楽しむコンテンツは盛り上がっていますが、致命的な健康被害が1件でも起これば、メディアも手のひらがえしをして危険性を煽り、加熱したブームは一気に沈下すると予想しています。こうなったら、産業利用も民間利用も関係なく、一気に「HMDは危険」というムードになってしまうでしょう。私としては、実際にMRを使って現場で成果が上がっておりますし、これ以外にも活用可能な技術なので、そうした成り行きはどうにか避けていきたいと思っています。

――こうしたリスクへの懸念を示す方は社内外にいらっしゃいますか?

他の団体や研究所などに連絡をとってみてはいますが、今のところは孤軍奮闘といった状況です。

新しいことに対峙したとき、勢いを持って普及させたがる人は必ず現れます。当たり前と言えばそうなのですが、普及を急ぐ人は、ハードウェアメーカーなど、その新しいものによって何らかの利益を得ることができる立場にいます。推進するのは構わないのですが、リスクも知った上で取り組まないと危険です。特に売り手はメリットの推進ばかりではなく、バランスのとれた販促を行ってほしいですね。