横浜市立大学(横市大)と警察庁 科学警察研究所の両者は6月11日、化学テロ発生現場において、微量に残留する猛毒の神経剤「VX」や「ノビチョク」などを検知するための新たな手法を開発したと共同で発表した。
同成果は、科学警察研究所 法科学第三部の広瀬隆平研究員(現・神奈川県警察横須賀警察署)、同・宮口一 部付主任研究官、横市大大学院 生命ナノシステム科学研究科の関本奏子研究教授らの共同研究チームによるもの。詳細は、米国化学会が刊行する、分析化学を扱う論文誌「Analytical Chemistry」に掲載された。
化学テロに用いられることで社会に大きな脅威を与える神経剤は、日本では1990年代のオウム真理教によるテロ行為「松本サリン事件」や「地下鉄サリン事件」でその危険性が広く認知されるようになった。しかし、一口に神経剤といってもその特性はそれぞれ異なり、「サリン」は揮発性が高く、蒸気となって広範囲に拡散するため同時に多数の被害者を出す危険性が高い反面、テロ発生後は屋外であれば比較的すみやかに揮発して散布現場から消失していく特徴を持つ。
一方、イギリスで開発され、オウム真理教が個人に対する襲撃事件でも用いられたVXや、第二次世界大戦後に旧ソ連・ロシアで開発された多数の神経剤の総称であるノビチョクは、揮発性がきわめて低い。そのため、物体に付着した場合にはそのまま長期間残留する上、手指や靴底などを通じて微量の神経剤が広範囲に拡散するリスクがある。
ところが、汚染部位の特定には多大な時間と労力を必要とする。実際、2018年に英国で発生したノビチョク暗殺未遂事件の現場除染には、約1年を費やしたとされる。そのため、迅速かつ簡便な汚染検知手法が求められていた。そこで研究チームは今回、横市大が培ってきた「大気圧コロナ放電イオン化法」の技術を応用し、現場から採取したふき取りサンプルから微量の神経剤を迅速かつ正確に検出できる新たな手法の開発を目指したという。
大気圧コロナ放電イオン化法とは、大気圧下で針電極に高電圧を印加し、コロナ放電を起こして試料をイオン化する技術のことだ。具体的には、コロナ放電によってまず大気成分がイオン化され、ここで生じた大気イオンが試料と反応することで、試料がプロトン化、脱プロトン化、または大気イオンの付加体としてイオン化される仕組みである。
今回の研究ではまず、市販の化学分析装置である「ナノ液体クロマトグラフ-質量分析計」に簡単な改造を施し、昆虫標本作製用の細い針の先端から安定したコロナ放電を生成できる装置が安価に構築された。さらに、チャンバーと活性炭フィルターを装置に取り付けることで、外部への有毒物質の漏洩を防ぐ構造が実現された。
次に、神経剤(VX、旧ソ連製VX類縁化合物「RVX」、5種類のノビチョク)をアラミド繊維片に載せて測定し、装置の検出性能が評価された。また、ドアノブや手すりを模したステンレス表面やプラスチック製スイッチプレートに神経剤を付着させた後、これをスワブ(綿棒)でふき取って測定する検出の実施。さらに、ふき取ったスワブを一定期間保存した後の検出可否も検証された。
性能評価の結果、コロナ放電によって生成する「ヒドロニウムイオン(H3O+)」から神経剤に効果的にプロトン(H+)が移動することで、神経剤を高感度に検出できることが明らかにされた。VX、RVX、5種類のノビチョクの検出下限は、スクリーニング用のフルスキャンモードでは50~250ピコグラム、分子構造を反映した特徴的なマススペクトルが得られるプロダクトイオンスキャンモードでは25~50ナノグラム(ng)であることが示された。
また、ステンレス表面やプラスチック製スイッチプレートに付着させてスワブでふき取った場合の検出下限(フルスキャンモード)は、VXでいずれも100ng、ノビチョク「A-230」および「A-242」でいずれも10ngだった。これら神経剤の経皮吸収による致死量は10mg前後と推定されており、致死量の10万分の1から100万分の1という微量を検知できるため、テロ発生現場において汚染状況を把握するのに十分な検出感度を備えていると結論づけられた。
さらに、1μgの神経剤をステンレス表面からふき取った後、VXとA-230は7日後、A-242は3日後まで検出が可能であり、分析装置への輸送などで測定までに時間を要する状況でも有効であることが確認された。
今回は神経剤が測定対象とされたが、他の物質についても同様に検知可能である可能性が示唆されたとする。マスタードガスや催涙剤などの他の化学兵器用剤、覚醒剤・麻薬などの薬物、爆発物など、警察が捜査対象とする多様な物質の検知に適用することで、化学テロ対策や科学捜査へのさらなる応用が期待されるとしている。


