『わたしの「対話人生」』国際社会経済研究所理事長・藤沢久美「創業家か否かを問う前に」

大胆な改革や中長期的な投資を進める経営者が創業家出身であると、「創業家だからできる」と評する声を耳にする。そして多くの場合、「サラリーマン社長にはできない」という言葉が続く。私はこの言葉に、強い違和感を覚える。

 確かに創業家の経営者は、企業の未来に自らの家族や血族の未来を重ねやすい。経営の判断が家の存続と結びついているからだ。その責任感や覚悟が、長期的な視点や大胆な決断を支えていることもあるだろう。だが、だからといって「創業家でなければできない」と断じるのは、経営者としての思考停止ではないだろうか。

 資本を持たぬ経営者であっても、企業の未来を「自分ごと」として考えることはできる。経営者が自らの任期や報酬にとらわれず、企業の未来を社会の未来と重ねて考えられるかどうか。そこにこそ、経営者の真価が表れる。

 報酬や地位は、その覚悟と成果の結果として自然に伴うものであり、目的ではない。多くの経営者が「社員に仕事を自分ごととして考えてほしい」と語る。しかし、最も自分ごととして企業と向き合わねばならないのは、ほかならぬ経営者自身だ。

 トップが真剣に未来を自分ごととして描くからこそ、社員もまた、自らの仕事を自分ごととして考えられる。経営とは、理念を押しつけることではなく、共鳴の連鎖を起こすことにほかならない。

 私はこれまで多くの経営者と対話を重ねてきた。その中で感じるのは、創業家か否かを問わず、未来への責任を自らの使命として受け止めている人ほど、意思決定がぶれないということだ。

 任期の長短や株主構成に左右されず、企業を社会的存在としてどう導くかを考える姿勢が、信頼を生み、結果として人と資本を惹きつけている。

 以前、ダボス会議で出会った世界の経営者たちは、時間・空間・心理の三次元で物事をとらえる広い視野を持っていることをこのエッセイで書いた。彼らは企業だけでなく、社会全体の未来を自分ごととして考えている。

 その立体的な思考こそが、リーダーシップの源泉であり、改革や投資における胆力の基盤となっている。 「サラリーマン経営者にはできない」と言う経営者がいる限り、日本は強くなれない。創業家か否かではなく、未来をどこまで自分ごととして描けるか─その一点にこそ、経営者の器が問われている。

 政・官・財が真に一体となり、日本が再び世界で存在感を示すためには、すべての経営者が、自らの企業の未来を社会の未来と重ねて考えることが求められる。いま、その覚悟が試されている。

スポーツの良さ 【私の雑記帳】