龍角散・藤井隆太の『私の社長30年史』(第3回)武士の刀

 桐朋音楽高校(正確には桐朋女子高等学校音楽科)に入学して思ったことは、たとえ音大を卒業しても普通の企業は雇ってはくれないだろうということです(当社は採用しています)。ということは、在学中に何とか食えるだけの実力を身に付けなければならない。

 音楽学校の学生は意外と忙しいもので、通常の学科はもちろん、音楽系の専門教育、自身の練習とレッスン・合奏・オーケストラと分刻みの生活でした。

 しかも先輩や先生に仕事を頂くこともあり、それなりに社会との接点も持っていました。高校生でも初心者の指導やアマチュアオケのエキストラは可能です。

 確か最初の仕事は東京・調布の電気通信大学オーケストラのエキストラでピッコロを吹いたときで、高校生であってもプロとして扱ってくれました。

 大学に進学すると更に忙しくなり、時々プロの演奏家に混じっての演奏もさせてもらえるようになりましたが、厳しかったのは、寄せ集めのオケで練習時間も限られ、冬の寒い中に朝早くから演奏するなど、即戦力であることが求められたのです。

 そこで役に立ったのが、元々ヴァイオリン専攻だったので譜読みも早く音程も正確だったことです。お陰でスタジオの録音など難易度の高い仕事も頂けました。

 更に管楽器奏者は特に体力が重要だと考え、毎朝、京王線の駅でホーム整理員のアルバイトにも通っていました。ある日、黒服に銀のネクタイでホームを走っていると、駅長が「今日は何かあるのか?」とおっしゃる。

 「これから実技の試験です」。すると「では一本早く上がって宜しい!」。学校に駆けつけて演奏すると、試験官の先生が「君さっき駅で走ってたよね」。やはり音楽の仕事にも様々な競争力は必要なのです。

 高校・大学時代の師匠は当時のNHK交響楽団首席フルート奏者の故・小出信也先生でした。正直なところ、とても模範的とは言いかねる部分もありましたが、まさにプロ根性を叩き込まれました。

 通常のレッスンよりも、地方都市の演奏旅行に同行させて頂き、時々は共演させて頂くなど実践教育そのものでした。

 

 地元の名士を招いた大宴会で、お酒を注いで回るように言われると、当然返杯を頂きます。散々飲んで酔っ払うと「ここで何か吹いてみろ!」とおっしゃる。

 酔っ払って全然吹けないでいると、師匠が「貸せ」と言うなり私の楽器で見事に吹くと、宴会で盛り上がっている会場が水を打ったように静まりかえったのです。

 そして一言、「笛は武士の刀と同じだ。いつでも吹けるようにしておけ!」。割れんばかりの拍手でした。

 卒業すると、やはりクラシック音楽本場の空気を吸ってみたいという衝動にかられ、師匠の紹介でパリに留学することになったのですが、これが経営者としての大きな転機を迎えることになろうとは。

龍角散・藤井隆太の『私の社長30年史』(第2回)実験だった?