東京大学(東大)は2月24日、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の原因となるトラウマ記憶の代表例である「恐怖記憶」が思い出されたあとに、恐怖を維持または増強する「再固定化反応」、あるいは、恐怖を減弱する「消去反応」のどちらが誘導されるのかをマウスを用いて解析した結果、「細胞外シグナル制御キナーゼ」の活性化により、再固定化の進行がリセットされ、その後の消去学習が可能となることが明らかとなったと発表した。

同成果は、東京農業大学(東京農大)生命科学部の福島穂高助教、東京農大 応用生命科学部の張悦博士研究員(当時)、東大大学院 農学生命科学研究科 応用生命化学専攻の喜田聡教授らの共同研究チームによるもの。詳細は、神経科学を扱う学術誌「The Journal of Neuroscience」に掲載された。

生死に関わるような体験などのあとに残る強いトラウマ記憶は、PTSDの原因となる。トラウマ記憶の代表例である恐怖記憶は動物からヒトに至るまで相同性が観察され、本来は危機回避のための本能行動と考えられている。恐怖記憶のメカニズムは未解明の部分が多いため、その理解はPTSDの治療方法の開発につながるとして、研究が熱心に進められているところだ。

恐怖記憶を思い出したあとには、再固定化反応を経て恐怖記憶が維持または増強される。一方、恐怖記憶は一種の条件づけ記憶であるため、記憶を思い出すだけでは(恐怖を再び実体験するわけでないので)、恐怖感は薄れていく。たとえば、車にひかれそうになった場所に行って、その体験を思い出すと恐くなるが、再び恐い思いをしない限りは恐怖感は弱まっていくという具合だ。心理学的には、この反応は記憶消去と呼ばれている。

このように、恐怖記憶を思い出したあとには、恐怖感を正負に制御する相反するプロセス(再固定化と消去)が誘導されることがわかっている。共同研究チームではこれまで、恐怖記憶の再固定化と消去のメカニズムの解明を進め、恐怖記憶を想起する時間が短ければ再固定化、長くなると消去が誘導され、再固定化と消去は独立したプロセスではないことを解明してきた。さらに、再固定化と消去を制御する脳領域が異なること、また、再固定化と消去の分子機構の共通性と特異性も発見している。

しかし、恐怖記憶が思い出されたあとに恐怖記憶の恐怖感を残したままにするのか、あるいは、記憶から恐怖感を消し去るかを決定する脳内メカニズムは不明だったという。以上の背景から、今回の研究では、恐怖記憶想起後に再固定化から消去に切り替わるメカニズムの解明が試みられた。

今回の実験で用いられたのが、マウスによる受動的回避反応課題だ。この課題では、明るく照らされた箱(明箱)と光が差し込まないようにした暗い箱(暗箱)とのふたつに分かれた箱が用いられた。マウスは最初明箱に入れられ、マウスは暗がりを好むので暗箱に移動すると電気ショックを受ける仕組みである。その結果、暗箱に対する恐怖記憶の形成が行われる。

  • 恐怖記憶

    マウスを用いた受動的回避反応課題の概要図。明箱から暗箱に移動すると電気ショックで驚かされ、暗箱に対する恐怖記憶が形成される。その後、暗箱にのみ滞在させると遺伝子が発現して恐怖記憶の維持・増強が起き、つまり再固定化がなされる。暗箱に移動後1分だけ滞在させると、分子スイッチのERKが活性化、再固定化から消去への移行となる。暗箱に移動後10分まで滞在させた場合も遺伝子が発現するが、この場合は消去が行われ、恐怖記憶が減弱する (出所:東京大学Webサイト)

このあと、マウスが再び明箱に入れられると、ふたつの箱をつなぐ穴の向こう側に見える暗箱に対する恐怖記憶が想起される。ここでマウスが暗箱に再び入り、電気ショックが与えられないということを実体験して暗箱は安全だと学習しない限り、消去は誘導され得ない。つまりこの課題を用いれば、明箱では再固定化が誘導され、暗箱では消去が誘導されるため、再固定化と消去を区別して解析することが可能となるのである。

そして今回の研究による解析から、明箱にだけ滞在させて恐怖記憶を思い出させると再固定化が誘導され、一方、暗箱に移動してから10分間暗箱に滞在させると消去が誘導されるのに対して、暗箱に移動してから1分間だけ暗箱に滞在させると再固定化も消去も起こらないことが示されたという。

さらに、明箱にだけ滞在させると脳の海馬、扁桃体、前頭前野で神経活動依存的遺伝子発現が観察されるものの、暗箱で1分間滞在させるだけで、これらの遺伝子発現がキャンセルされることが確認されたとした。しかし暗箱に10分間滞在させると、再び遺伝子発現が起こり始めることが確かめられたのである。

以上のことから、再固定化から消去に移行する過程で、再固定化をキャンセルし、消去を開始させる「切り替え反応」の存在が示唆されたとした。

そこで、明箱から移動したあとに暗箱で1分間滞在したあとに起こる分子レベルの変化に関する解析が行われた。すると、細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase:ERK)の活性化(リン酸化)が引き起こされていることが判明。

このことから次に、海馬、扁桃体、前頭前野におけるERKの活性化をERK阻害剤の微量注入により抑制を実施。その結果、再固定化が再び誘導されるようになることがわかったのである。このことは、ERKの活性化によって再固定がリセットされ、そして消去を開始させることを強く示唆するものだという。

以上の結果から、脳において、再固定化から消去への切り替えを動的に調節するメカニズムが存在することが考えられるとした。つまり、恐怖記憶を思い出したとき、まだ恐怖を感じる必要があれば再固定化を誘導して恐怖を保持させるが、恐怖を感じる必要がなくなってきた場合には再固定化を停止して、消去を開始させて(恐怖を感じる必要がないことを)安全学習させていると考えられるとする。つまり、このERKの働きで、恐怖体験を思い出すだけでは震え上がることがなくなるといえるようだ。

以上のことから、ERKの働きにより消去が起こりやすくなることが考えられるとし、この分子スイッチを調節することでトラウマ記憶の消去を促進する方法を開発すれば、PTSDの治療方法開発に貢献できると考えられるとしている。