「おおすみ」を打上げたラムダ

日本初の人工衛星「おおすみ」が打上げられたのは、今からちょうど40年前の1970年2月11日のことだ。これを記念して、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は2月7日、国立科学博物館(東京・上野)にてシンポジウム「日本の宇宙科学の歴史 ペンシルからラムダ、ミュー、そして未来へ」を開催した。

講演者は、秋葉鐐二郎(宇宙科学研究所名誉教授)、的川泰宣(JAXA名誉教授)、森田泰弘(JAXA宇宙科学研究本部教授)の3氏。それぞれの世代で宇宙科学をリードしてきた、あるいは現在もしている宇宙工学者である。シンポジウムの最後には、会場との意見交換の場も設けられた。

国立科学博物館。今月末までは「おおすみ」の企画展示も開催されている

会場は満席。WEBで受付開始後わずか1日で定員(120名)に達したそうだ

何事も最初からうまくいくことなどないが、「おおすみ」の場合も、成功に至るまでに4回の打上げ失敗があった。

ここで本題に入る前に、少しだけ時代背景の補足をしておきたい。

日本のロケットの歴史は、東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授がペンシルロケットの水平試射に成功した1955年に始まる。その後、1964年になって東京大学に宇宙航空研究所が設立され、ロケットの開発は本格化する。全長23cmからスタートした日本のロケットは、この当時、全長16.5m、重量9.4tの「L(ラムダ)-4S」まで大型化していた。

国立科学博物館の屋外には、L-4Sロケットとランチャーが展示されている

ちなみに、宇宙航空研究所は1981年に文部省(当時)所管の宇宙科学研究所(ISAS)となり、さらに2003年には宇宙開発事業団(NASDA)・航空宇宙技術研究所(NAL)と統合し、現在のJAXA宇宙科学研究本部に至るわけだが、NASDAが発足したのは1969年10月。L-4Sの4回の失敗は、すべてその前の出来事である。

1号機の打上げは1966年9月。2号機を同年12月、3号機を1967年4月と立て続けに打上げるも、全機とも上段の分離や点火に失敗。1機の打上げには1億円程度の費用がかかっており、新聞からは「無駄遣い」と叩かれた。

わずか7カ月の間に3機を打上げたわけだが、この後、漁業補償が政治問題化したこともあり、2年半のブランクが開くことになる。その間に改良を進め、万全を期したはずの4回目(1969年9月)も、分離した第3段が残留推力によって第4段に衝突、姿勢の乱れを修正できずに失敗してしまった。

このあたりの話はJAXA宇宙科学研究本部の「日本の宇宙開発の歴史 宇宙研物語」に詳しいので、ここでは述べない。興味がある人は、そちらを参照して欲しい。

1970年の5号機でついに成功となるわけだが、じつは人工衛星の打上げ用としては、1963年に次世代の「M(ミュー)」ロケットの研究がスタートしていた。それを待たず、ラムダを使ったのには、本格的なミューでは費用がかさむため、まずは小型のラムダで実験をしよう、という計算があったそうだ。

これについて、「衛星技術という新技術を確立するために、最小規模での開発を行った。これは糸川先生のペンシルロケットにも通じる」と秋葉氏。さらに「最小規模で技術を実証することは、次の時代、次の技術を切り拓く上で、非常に大事な意味を持つ。ペンシルでは宇宙研究の時代が幕を開けた。そして『おおすみ』では科学衛星の時代が幕を開けた」と述べた。