シミュレーションの話は、本連載のだいぶ初めのほう、第47回~第52回で取り上げたことがある。そのシミュレーション機材(つまりシミュレータ)について、近年になって頻出しているキーワード、それが “high fidelity”。
fidelityとは
辞書で fidelity という言葉の意味を調べると、「忠実・忠誠」「忠実度」といった訳が出てくる。だから high fidelity なら「高忠実度」だ。ちょっと意訳すると「高再現度」ともいえる。
シミュレータは現実環境を模擬する機材だが、例えば飛行機の操縦訓練で使用するフライト・シミュレータなら、モーション装置による動きの模擬に加えて、音や、窓の外の景色も模擬する。このうち実現に際してのハードルが高いのが、ビジュアル装置を使用する、窓の外に見える景色の再現だろう。
昔のフライト・シミュレータは、線画とベタ塗りを組み合わせた、8bitや16bitのパーソナル・コンピュータでお絵かきしたような映像を表示していた。それでも、あるとないとでは大違いだが、忠実度が高いかといわれれば「否」と答えざるを得ない。
しかし、その後の技術の進歩により、はるかにリアルな映像を表示できるビジュアル装置が出現して現在に至っている。それだからこそ、CAEやタレスなどといったシミュレータ屋さんが「うちの製品は高忠実度」とアピールできる。では、ビジュアル装置であれ、その他の分野であれ、高忠実度のシミュレータを実現するには、いったい何が必要か。
シミュレータの仕事
シミュレータとは、コンピュータを用いて現実環境を再現する機器だが、コンピュータがそれをやるためには、模擬する対象に関する「モデル」と「データ」が要る。モデルとは要するに計算式であり、そこで関わってくる各種の可変要素は別途、データとして算入する。
例えば、フライト・シミュレータのモーション装置であれば、「どういう操縦操作をした時に、機体がどういう動きをするか」という計算式を作る(これがモデリング)。しかし実際には、操縦桿やスロットル・レバーやラダーペダルの操作量が変われば、機体の動きも変わる。そして風向・風速によって外的影響が違ってくるし、気圧や気温が変わればエンジン出力に影響が出る。
これらはみんな可変要素だから、データとして持っておいて、シミュレートするための計算式に算入する。その最終的な出力が、計器盤に取り付けられた計器の動きや、モーション装置の動きといったところに反映される。すると、そのモデリングに用いる計算式が、どれだけ実機に則した結果を出せるかが問題になる。
では、ビジュアル装置ではどうか。まず、シミュレートしようとする場所の地形や風景に関するデータがなければ話が始まらない。そこで、実際に映像を生成する機能を受け持つビジュアル装置本体(と、そこで動作するモデリング用の計算式)に加えて、地形・地勢・植生に関するデータベースが必要になる。
本物に近い、高忠実度の映像を再現するには、それだけ多くのデータを必要とする。そして、機体の位置・針路・速力・姿勢といったデータを基にして、「この位置からだと、眼下の地形や建物などはこういう風に見える」という計算をして、映像を生成・表示する。
データ量が増えれば、映像を生成するための計算量も増える。しかも動画だから、時々刻々、内容をスムーズに変化させていかなければならない。表示がギクシャクしたのでは、忠実度が高くならない。
だから、ことにビジュアル装置についていえば、高忠実度の製品を作ることができるようになったのは「ムーアの法則のおかげ」というところがある。大量のデータを保持・出力する能力とともに、高速で処理できる計算能力も求められるからだ。もちろん、それに見合った水準のモデリング機能も必要になるのだが。
ただし、シミュレータでは森林なのに現地はハゲ山だった、では忠実度が下がる。もちろん、建築物や、橋梁・ダムなどといった各種構造物もデータベースに取り込む。新しい高層ビルが建てば、そのデータを可及的速やかに追加する。つまり、データベースのメンテナンスも大事な仕事になる。
このほか、シミュレータに現れる「敵機」をコンピュータが生成する代わりに、別のシミュレータを操縦する誰かさんと通信対戦するようにすれば、これもまた、忠実度を高める要素となる。やはり生身の人間のほうがリアリティがある。
視線追跡機能なんて話も出て来た
高忠実度をうたうのは、シミュレーション機材を手掛けるメーカーならみんなやっていることだが、さらに面白い話が出て来た。それが、CAEが2021年8月23日に発表した案件で、対象はオーストラリア空軍のホークMk.127練習機用のシミュレータ。
すでにあるFMS(Full-Mission Simulator)をアップグレード改修する契約だが、そこでFMSに視線追跡機能を組み込むのだそうだ。カメラのファインダーの話ではなく、フライト・シミュレータの話である。
これは筆者の推測だが、視線追跡機能は訓練効果を高めるためのデータどりが目的ではないだろうか。つまり、操縦操作を行っている過程でパイロットがどちらを向いて、何を見ているかを時々刻々、追跡してデータをとる。すると、デブリーフィングの席で「君はここの場面で、こちらの方向を見ているべきだったのに、見ていなかったな」「こういう事態になった時には、まずここの計器を見なければならないのに、違うところを見ていたな」といった話ができるのではないか。
現実を再現するという意味での「高忠実度」の話からは外れるが、これもまた、実際の現場に則した訓練を行うための一つの技術的工夫、とはいえる。
著者プロフィール
井上孝司
鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野で、技術分野を中心とする著述活動を展開中のテクニカルライター。
マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。『戦うコンピュータ(V)3』(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて『軍事研究』『丸』『Jwings』『航空ファン』『世界の艦船』『新幹線EX』などにも寄稿している。