前回のセッションで、「犬のうつ病」について山下と話したおかげで、「人間のうつ病は周りの環境、上司との関係」に深く関係することを頭ではなく、気持ちの上でも理解できるようになった佐々木は、上司として自分が部下に対して取ってきた行動を、今までとは違う視点で見るようになった。やっと、自分が「部下のうつ病」の原因だったかもしれないことを認め始めたのである。いったん、この視点で今までの行動を振り返ってみると、思い当たることがたくさん出てきた。同時に、自分を「パワハラ上司」と周囲が見ていたことにも気づくと、周りがみな、敵のようにも思えてきた。今まで、我が物顔で通っていた職場が、突然に居心地の悪い職場に変わっていた。「何とかしなければ」という気持ちも出てきたが、どんな思いで自分を見ていたのか、上司や部下たちの顔を浮かべると、そのことが気になって、具体的に何から手をつけたらいいのかがわからなかった。

佐々木は、次のセッションで山下に自分の心の内を打ち明けて、今後のアクションについて話し合いたいと心から思うようになった。

今日は4回目のセッションである。山下は、前回のセッションで佐々木とのコーチングの関係が大きく前進したことを感じ取った。「自分がパワハラをやっていたことを認める」という過程を通った佐々木には、山下に対するさまざまな「抵抗」はなくなりつつあった。今日も佐々木は、時間よりも早く来ていた。山下は、佐々木に今までのような挑戦的な態度はなくなり、山下の言葉に耳を傾け始めているという強い感触があった。「さあ、これからですよ、佐々木さん」と山下は心の中で嬉しい掛け声をかけた。

山下は、佐々木のこれからの行動について、パワハラ上司に対する指導書にあるような一般的な提案は出さずに、できるだけ具体的な行動を、佐々木自身が決めていくように進めることにした。そのほうが佐々木が自分の行動に対して強いコミットメントをするからである。

山下は、以前にまとめた佐々木についてのノートを見て、「事実」を中心に進めていくことにした。ようやく、山下は、佐々木に「パワハラ」について率直に質問をしていくことができる段階にたどり着いたのである。

山下: 部下の一人が精神的に弱くうつ病になったことがあるとおっしゃいましたが、その方は今はどうしているのですか?

佐々木: 今は仕事に戻ってはいますが、まだ、ちょくちょく休みをとっているようです。

山下: 休みの理由はご存知ですか?

佐々木: 病欠だったり、有給休暇をとったりしていますね。

山下: ちょくちょく休みをとっていると、会社で許可している病欠や有給休暇の日数を超えてしまうのではありませんか?

佐々木: もうそろそろ、そうですね。これからのことが気になっていたんですよ。

山下: それで、メンタルタフネスの研修のことを検討されてもいたんでしょうか?

佐々木: まあ、そうですね。でも、今は、メンタルタフネスの研修云々の問題ではないことが、自分でもわかりましたから…

山下: と、おっしゃいますと?

佐々木: 先日の犬の話で気づいたんですが、部下がうつ病になったのは、自分と部下との関係に何か起因しているのではないかと…

山下: 何か思い当たることはおありですか?

佐々木: この部下の名前は加賀というんですが、私と同じ大学の出身で入社当時からちょっと目をかけていたんですよ。だから、自分の部にいれてもらったんですがね。その、ちょっとプレッシャーを与えすぎたんではないかと…

山下: そのプレッシャーというのは、佐々木さんが加賀さんのことを思うがゆえにかけてしまったものですか?

佐々木: そうでしょうね。あのときはプレッシャーをかけているなんて思いもしなかったですが、今思い返すと、加賀にしてみればプレッシャーだったんでしょうね。

山下: 加賀さんにかなりの期待をされていたんでしょうね。

佐々木: そうですね。大学の後輩でもあったので、徹底的に仕込んでやろうと思ってたんですが、思いのほか、加賀は自分の期待に応えてくれなかったんですよ。

山下: 佐々木さんは御自分の期待を、加賀さんに話されたのですか?

佐々木: そんなこと、いちいち話さなくてもわかっているはずだと思い込んでいたんですが、それが、間違いだったようですね。

山下: どうして、間違いだったと思われるのですか?

佐々木: 加賀には理由を言わずにともかくやらせるという育成を1年続けたんです。私も自分の先輩に言われたことだけをともかくやる、というやり方で仕込まれましたからね。最初は文句も言わず、コツコツと言われたことを、夜遅くまでがんばってやっていましたが、1年が過ぎてから突然に無断欠勤をしたり病欠の数が増えてきたんですよ。

山下: 最初の無断欠勤のとき、どうされたのですか?

佐々木: もちろん、次の日に出社したときに、「みんなが猫の手も借りたい忙しいときに、無断で休むとは何事だ」と、大声で怒鳴ってやりましたよ。

山下は、佐々木との会話がいよいよ、「パワハラ」の本質に入ってきたと、感じ取っていた。

相手に対する期待が大きければ大きいほど、その期待に応えてもらえなかったときの失望感も大きくなる。独りよがりの期待を寄せて、部下を窮地に追い込んでいないか、今一度振り返ってみたいものである

(イラスト ナバタメ・カズタカ)