シリコンバレーの風景
シリコンバレーは私の仕事人生の心のふるさとである。
別にシリコンバレーという名前の都市があるわけではない。サンフランシスコ・ベイエリアの南部に位置している、パロアルトからサンノゼに行く間の土地に、半導体業界で一旗揚げようという野心たっぷりのエンジニア達が集まってきて、会社を興し、急速に成長して、名だたる半導体企業が軒を並べるようになったので、いつの間にかこの地域がそう呼ばれることになったのである(半導体=シリコンの街)。
サニーベールにあるAMD本社に出張する時には、まずサンフランシスコに降り立ち、レンタカーを借り、ハイウェイ101で100キロくらい南に下ることになる。今では羽田空港から日本を朝に出て、USに夜につく便もあるらしいが、その当時は大抵成田空港を夕方に出て、サンフランシスコに朝の10時くらいに着く便が主であった。
夕方日本を出て9時間ぐらい飛ぶと、まず例外なく信じられないような真っ青なカリフォルニアの空が寝不足の目に痛いほどに迫ってくる。その青い空は"ようこそカリフォルニアに"と言うあっけらかんとしたメッセージと同時に、仕事モードに入るスイッチになる(私はいつかカリフォルニアに観光で訪れたいと思っているが、多分100回近く仕事で行っているのに一度も観光で訪れたことがない…)。
レンタカーで日本ではめったに運転しない大きな車を慣れない右側通行で何とか走らせると、マチルダとか、モフェットとか懐かしいストリートの名が出てくる。Lawrence Expresswayという標識がでてきたら101号線を降りる。あのカリフォルニア特有の乾いた空気の匂いと突き抜けるような青い空は、シリコンバレーを訪れた人であればいつまでも忘れない独特の感覚であろう。
元々は小さなベンチャーの集まり
せっかくAMDの話を書く機会を得たので、どうせなら、AMDを育てたシリコンバレーの簡単な歴史、またそれを築き上げたレジェンドたちの話も書いておこうと思う。
この辺の話をすると、私的にはここに出てくる人物たちの名前を聞くだけである種の興奮を覚えるのだが、一般の読者にはなじみがないと思うので背景説明を記しておく。今は大企業となったけれど、当時は小さなベンチャーの集まりだったシリコンバレー企業の系譜である。
それまではサクランボなどの果物の生産地でしかなかったカリフォルニアのサンタクララ周辺が、シリコンバレーと呼ばれる世界中のハイテクの中心地となった起源は、トランジスタの発明で知られるウィリアム ショックレーが開設したショックレー半導体研究所にある(ショックレーはベル研究所でトランジスタを開発した他の2人の科学者とともにノーベル賞を受賞した)。ショックレー半導体研究所は半導体製品を開発しビジネスにする目的で設立されたが、ショックレー自身は優れた科学者であったがビジネスマンではなかったらしい。
そのうち、造反組8人がスピンアウトして作った会社がフェアチャイルド セミコンダクターである。半導体ビジネスの起源と言う意味では、このフェアチャイルドが本格的な起源と言えるかもしれない。かくしてフェアチャイルドはアメリカ全土から当時としては新興ビジネスであった半導体に惹かれる若い優れたエンジニア、マーケッターたちをシリコンバレーに結集させ、成長させる学校のようなものになった。
これらの優れたタレントは、急速に成長する半導体産業で自分自身の夢を実現するべく、次々にフェアチャイルドを出て自身の会社を設立していった。その中でも、Intel、AMD、National、LSI Logicはその後も成長を続け大企業となり、シリコンバレーの老舗として数々の会社を増殖させていった。フェアチャイルドのチャイルド(子供)に掛けてこの4社がフェアチルドレン(子供の複数形)と言われる所以である。
半導体業界にはこれらのシリコンバレーの新興企業がのし上がってくる以前から既に確立されていたテキサス州ダラスの雄・Texas Instruments(TI)、アリゾナ州フェニックスのMotorolaなどがあったが、シリコンバレーの企業はカリフォルニアの開放的な企業風土と言う意味ではかなり特殊なものであったと思う。
強烈な個性のぶつかり合いが原動力に
いかにも個性の強い役者たちが揃っていた。私は、AMD入社当時から日米の半導体企業が日米政府レベルの貿易摩擦の話題の中心になった1986年頃から(この件については後程述べる)PRの担当として関わったので、幸い図に示した創業者たち(ショックレーを除いて)に実際会っている(会っているといっても、同じ部屋にいて彼らのやり取りを聞いている立場にあっただけの話だが…)のでこれらの名前を聞くだけで未だにちょっとした興奮を覚えるのである。
あのころのシリコンバレーの名だたる会社のExecutive達がなんと格好良かったことか!!すべてのExecutiveが非常に個性的で、しかも自信に満ちていた。お互いライバル同士であっても共通の目的については非常にオープンに、しかもカジュアルに話し合っていた。私のその時の印象は、その後のこれら伝説的人物の記述の通りである。天才的で親分肌のNoyce、学者のようなMoore(あのMooreの法則で有名な)、製造プロのSporck、イギリス紳士のCorrigan、そして、根っからのセールスマンの伊達男、我ら愛すべき"Jerry" Sanders。
これらの強烈な個性が、あるときには協力し合い、ある時はぶつかり合い、切磋琢磨してシリコンバレーの原動力を生み出していた。私は日本の半導体業界もある程度知っているが、シリコンバレーの会社と決定的に違うのはこの業界内のコミュニケーションのダイナミックさだと思っている。そして、それが両国の半導体業界の競争力に大きく影響したと思う。
シリコンバレーのレストランでは隣のテーブルで、結構知られた人たちが、競合同士なのにビジネスの話を結構オープンに話しているのを見かけたことがよくあるし、技術者同士が素晴らしい半導体回路のアイディアをレストランのナプキンに書き記しているのをみたこともある。ある時、ふらっと立ち寄ったパロアルトのハロウィーン衣装の店で、突然Steve Jobsが娘に衣装を買っているところに出くわした時はさすがに驚いた…
知らない人同士でも、目があえばにこっとしたり、ウインクしたりするあの雰囲気は、実際はしのぎを削り合い、ストレスいっぱいの仕事生活に身を置く人たちであるのに、人生を楽しむ余裕が感じられ、独特のものがある。
AMDの創業者9人がシリコンバレーの最初の工場を建設する際の鍬入れ式の様子。左から4人目がJerry Sanders。 (出典:「THE SPIRIT OF ADVANCED MICRO DEVICES」) |
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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