米IBMは5月5日~7日の期間でボストンのThomas M. Menino Convention & Exhibition Center(MCEC)において、年次カンファレンス「IBM Think 2026」を開催している。初日のキーノートでは「Win the enterprise AI race(エンタープライズAIの競争に勝つ)」をテーマに同社CEO Arvind Krishna(アービンド・クリシュナ)氏がプレゼンテーションを行った。単なるツールとしてのAIから脱却し、企業の中核に据える「AIファースト」への転換が不可欠だとし、ハイブリッドクラウドや量子コンピューティングとともに新たな競争軸を示した。
IBM Think 2026開幕、AI競争の構図が変化
前回から会場を移したMCECは、ボストンの再開発地区であるシーポート・ディストリクトのウォーターフロントに位置し、ローガン国際空港から車で約7分の超大型施設。日本で言えば東京ビッグサイトに近いイメージだ。
キーノートのトップに登壇したクリシュナ氏は「ここ数年、テクノロジーの世界で何が起きてきたかを振り返ると、AIについての議論、そしてテクノロジーがいかに企業の改善に役立つかという議論が、数え切れないほど行われてきました。ただ、何かが変わり始めていると感じています」と示唆。
同氏が言及しているのは、現在の焦点は“AIそのもの”ではなく、AIで成果を上げる企業と、そうでない企業との差は急速に広がっている点にある。その違いを生む決定的要因は、予算規模やチーム人数ではなく、AIが業務の周辺にあるのか、それとも中核に位置づけられているのか、AIが企業の中心にあるかどうかだという。
クリシュナ氏は「企業は小規模なパイロットやPoC(概念実証)、実験的なAIの活用にとどまっていてはなりません。重要なことはAIを使って事業そのものを再設計し、新たなオペレーティングモデルを構築することです。単なるAIに対応するために事業に組み込む企業ではなく、“AIファースト企業”へと進化する必要があります」と説く。
ここで示された新たなオペレーティングモデルとは「AI Operating Model(AI運用モデル)」だ。データ、エージェント、オートメーション、ハイブリッドの4つの統合システムを指す。こちらについては、初日午後のキーノートで詳細が明かされたため、別の記事で紹介していく。
AI投資と生産性 - データから見えてきた現実
さて、話をキーノートに戻すと、なぜAIファーストの企業が求められるのかだ。それを裏付けるものとして、IBM Institute for Business Value(IBV)のグローバル調査と同社の自社実績(開示データ)を出典元とした各種のデータが紹介された。
これらによると、AIは2030年までに最大40%の生産性向上をもたらすと予測されている一方で、AIインフラへの投資は急拡大して、全体では150%、直近4カ月では90%増となっている。
現在、組織の3分の2以上がAIで得られた生産性向上の効果を、イノベーションや成長に再投資する計画を持っているほか、支出の60%以上は新製品や新しいビジネスモデル、新サービスの創出に向けられているとのことだ。AIを中核まで組み込んでいる企業は、生産性改善が70%高く、サイクルタイムは74%短縮、プロジェクト完了までの時間も67%短縮されたという。
また、IBMもクライアント・ゼロ(最初の顧客)としてAIおよび自動化を全社的に適用することで、年間換算45億ドルの生産性向上を達成している。
しかし、経営層の期待と現実には大きなギャップが存在し、経営層の80%は「2030年までにAIが大きな収益を生む」と期待しているが、その具体的な実現方法を明確に説明できるのは20%となっている。さらに、68%の経営者はAIが業務プロセスに十分組み込まれなければ、AIの施策は失敗すると懸念しているようだ。
クリシュナ氏は「すでに企業が活用可能なインフラやAIモデルへの莫大な投資が行われています。重要なことは、それらを目的に適した形(Fit for Purpose)で使い分けることです」と話す。
つまり、大規模モデルや巨大なインフラが必要なケースもあれば、オンプレミスやエッジで動かす軽量なモデルの方が適している場合もあることから、これらを組み合わせて活用することが鍵だという。
AIで勝つ企業の条件とは
では成功する企業とは、どのようなものなのだろうか。同氏は、実際のエンタープライズ環境でAIモデルを機能させられる組織と定義。これには深い技術力、特に規制産業において不可欠な長年の信頼、そしてベンダーロックインを避けるためのマルチベンダーの対応力が求められるという。
昨今、各国ではサイバー攻撃や地政学的なリスクなどを背景に「Sovereign(ソブリン/主権)」が重要視されており、テクノロジーは金融や防衛と同様に、国家競争力を左右する要素とみなされている。
国家や企業には、他者に止められたり、改ざんされたり、地政学的な影響を受けたりしない、自らが制御可能なAIインフラが必要となっている。同氏は「これは理論ではなく、喫緊の現実的なビジネスの要請です」と強調する。
そして、今後の企業にとって重要となる3つの重要な技術ベクトルとして「AIファースト企業」「ハイブリッドクラウドアーキテクチャ」「量子コンピューティングのフロンティア」を提示した。
IBMが提示するAI基盤と「IBM Bob」
まず、AIについてクリシュナ氏は、これまでの“周辺業務へのAI活用”から“中核としてのAI”に移行するには企業全体にまたがる、複雑で相互依存的な業務フローを調整できるエージェントプラットフォームが必要だとの認識を強く示す。
そして、同氏は「信頼性が高く、統制され、アクセスが可能なデータや部門横断で耐障害性を備えたインフラとともに、AIスタックに対する制御性と柔軟性を両立したオープン性も求められています」と述べている。
これらを具現化する製品群の一部として、すでに提供済の開発者向けエンドツーエンドAIプラットフォーム「IBM Bob」、AI対応主権管理ソフトウェア「IBM Sovereign Core」、アプリケーション、インフラ、ネットワーク、コストに関するシグナルを統合して、既存ツールの置き換え不要で単一の運用ビューを提供するAI主導の運用プラットフォーム「IBM Concert Platform」(パブリックプレビュー)が紹介された。
特に、Bobについては熱く語られた。Bobはアーキテクチャ設計、計画、コード生成、テスト、セキュリティなど、開発ライフサイクル全体を支援する。単なるコーディング支援ツールではなく、エンジニアリング全体を支える存在として据えている。
IBM社内では約8万人の開発者が利用。広範に普及しており、平均45%の生産性向上が報告されている。タスクに応じて、最適なモデルを自動選択するマルチモデルオーケストレーション層を備え、開発者はモデル選択に煩わされることなく成果に集中できるという。
また、柔軟なデプロイ、セキュリティスキャン、コンプライアンス対応など、エンタープライズ向けの機能を持ち、既存環境を置き換えるのではなく、必要な部分と連携した導入を可能としている。
データを動かさずAIを動かす - ハイブリッドクラウドアーキテクチャ
講演では企業における大きなギャップが指摘された。AIの可能性に対する期待は高い一方で、プロジェクトの失敗も頻発し、原因はAIモデルではなく、それを支える基盤側にあるという点だ。
実際、そのような基盤はデータのサイロ化やパブリック/プライベートクラウド、オンプレミス、エッジなどが混在し、インフラが断片化しており、運用も統一されていないケースが多い。
そのような状況に対して示されたものが、第2の重要な技術であるハイブリッドクラウドアーキテクチャというわけだ。クリシュナ氏は「データを移動させるのではなく、AIをデータのある場所に持っていくという考え方です」と説く。
ハイブリッドクラウドアーキテクチャはパブリック/プライベートクラウド、SaaS(Software as a Service)、オンプレミス、エッジを統合する。
エンタープライズAIに不可欠な持続的な基盤とし、レジリエンスを確保するとともに障害を回避しながら柔軟な運用が可能なほか、データを特定地域や論理領域に保持したまま活用できるため、ソブリンにも対応するという。
こうしたIBMの戦略は、これまで買収してきた企業や協業の経緯を見ると納得できる。コンテナ基盤では「Red Hat OpenShift」、マルチクラウド管理にHashiCorpなどを傘下に収めている。加えて、2025年末にリアルタイムデータ基盤にOSSであるKafkaベースのデータストリーミングを手がけるConfluentを約110億ドルで買収したほか、NVIDIAとはデータ分析・処理の高度化を実現している。
量子コンピューティングの事例
そして、キーノート終盤には第3の重要な技術的ベクトルとして量子コンピューティングが取り上げられた。
クリシュナ氏は「量子コンピューティングはもはや“実現するかどうか”という科学的問題ではなく、“いつ実現するか、どれだけ速く普及するか”というエンジニアリング的な課題に変化しています。SFに過ぎないという見方は、すでに過去のものとなっているのです」と説明する。
IBMでは昨年に2026年末までに量子優位性の達成、2029年までのフォールトトレラント(耐障害性)量子コンピューティングを提供すると発表。量子優位性とは、量子コンピュータで実行される情報処理タスクが「分離性」と「検証性」の2つの条件を満たすということ。
分離性は、古典コンピュータ単体では不可能な高い計算効率、精度を低コストで実現することを指し、検証性は出力の正確性を厳密に検証可能であることを指す。
その後、IBMは2026年3月に量子中心型スーパーコンピューティングのアーキテクチャを明らかにした。同アーキテクチャは、量子プロセッサを従来のGPUやCPUと統合することで、ハイブリッドな計算基盤を構築。同社や量子コンピュータを導入している米Cleveland Clinicに加え、富士通、理化学研究所などのパートナーが関与している。
同氏は「量子とAIは競合関係ではなく、相互補完的な関係にあります。量子コンピュータは、従来のAIでは解けない問題に対する新たな洞察を提供し、AIはその結果を学習してアルゴリズムや計算の進化を加速させます。この循環によって、両者は相乗的に進化していくのです」と期待を示している。
すでに、IBMでは日本を含めてグローバルで80台以上の量子コンピュータを構築・展開し、シミュレーションではなく、実際に稼働している量子システムとなる。クラウド経由でアクセス可能となっており、研究者や企業は実際の量子計算環境を利用できる。
パートナーエコシステムにも注力している。現在、学術、政府、産業界を含む300以上のパートナーがこれらの量子システムを活用し、成果を挙げているという。
実際の成果として、IBMとCleveland Clinic、理化学研究所は、量子コンピュータとスーパーコンピュータを組み合わせた研究を進めている。Cleveland Clinicに導入された「IBM Quantum System One」と、理研のスーパーコンピュータを用い、最大1万2635原子規模のタンパク質複合体のシミュレーションを実施した。量子単体では扱えなかった規模の計算を、HPCと組み合わせることで可能にした点が特徴で、量子と既存計算基盤の融合の実例と位置づけられる。
AI時代の競争軸は「アーキテクチャ」にある
最後のラップアップでクリシュナ氏は以下のように、改めて強調した。
「これら3つの領域における私たちの役割は非常にシンプルです。私たちは、いまの立ち位置から出発できるよう支援し、既存のインフラ上で自社の管理に置きつつ、スケールさせていくことを支援します」(クリシュナ氏)
そのうえで、同氏は「私たちはオープン、ハイブリッド、ソブリン、そして責任あるアプローチを重視しています。モデルのレイヤーは今後も変化し続けます。だからこそ、重要なのは“アーキテクチャの持続性”です。組織のデータ、アーキテクチャ、そして課題全体にわたって、持続的な価値を得られるようにする。それが私たちの目指すところです」と意気込みを示していた。
IBMが今回のキーノートで示したのは、AIそのものの優劣ではなく、それを支える「アーキテクチャ」が競争力の源泉になるという考え方だ。
AIを中核に据えるAIファースト企業への転換、データを移動させずAIを持ち込むハイブリッドクラウド、そして量子コンピューティングという新たな計算基盤。この3つを一体で捉えることが求められている。モデルは変わり続けるが、基盤は長く残る。企業に問われているのは、その持続的な設計思想なのではないだろうか。







