電力・ガス自由化の激戦を勝ち抜くため、東京ガスが選んだ道は徹底的なデータ活用だった。しかし、そこには数々の「壁」が立ちはだかる。PoCで止まるプロジェクト、思うように使われないシステム、元に戻る業務プロセス……。こうした失敗を乗り越え、同社が行き着いた答えが「データ・AIの民主化」だ。
5月19日~22日に開催されたオンラインセミナー「TECH+ Business Transformation Summit 2025 May. 課題ごとに描く『変革』のミライ」で、東京ガス DX推進部 データ活用統括グループ マネージャー 笹谷俊徳氏は、「基盤整備」、「人材育成」、「ユースケースの開拓と横展開」の三位一体改革により、約3500名が生成AIを使いこなす組織へと変貌を遂げた同社の挑戦について紹介した。
1980年代から始まったデータ分析の歴史
東京ガスのデータ活用の歴史は意外に長い。笹谷氏によれば、同社は1980年代以前からデータ分析の専門組織を設けていたという。「最初は一部の専門家による分析でしたが、そのなかで見えてきたのは、"いい分析"をするだけでは足りないということだった」と同氏は振り返る。
現在、東京ガスグループは5つの社内カンパニーと3つの基幹事業会社を中心とした組織体制をとっており、各組織が自らDXを推進しつつ、DX推進部やIT子会社の東京ガスiネットが横串を通すかたちでサポートしている。
ガス機器から人事まで - 1000万の顧客データが生み出す「予測の連鎖」
同社の強みは、1000万件超の顧客データと年間500万件以上の顧客接点データ、さらに製造施設やLNG船などのインフラ設備データを保有していることだ。これらのデータをバリューチェーン全体で活用し、原料調達から営業マーケティング、カスタマーサービスに至るまで、各段階でAIを実装している。
具体例として、笹谷氏はLNGローリー供給事業の効率化を挙げた。
「ガス導管が設置されていない地域について、従来はお客さまからのFAXや電話による注文に応じて配送していましたが、車両手配の非効率性が課題となっていました。そこで、AIによる需要予測と配送計画の最適化により、効率的な配送の実現とお客さまの発注の手間の削減を実現しました」(笹谷氏)
また、人事領域でもデータ活用は進む。社員と会社の双方の成長を目指し導入された新しい専門性体系の下、社員のスキルやキャリアに関するデータをAIで分析。笹谷氏は「キャリアアドバイザーAIは社員のキャリア相談に乗り、タレント検索システムは職務にマッチした人材をAIが推薦する」と、人材育成と配置の最適化にもAIが貢献していることを示した。
データ活用の壁と民主化への挑戦
しかし、こうした取り組みも一筋縄ではいかない。笹谷氏は「データ分析の役割は意思決定を高度化・効率化することにあるが、そこに至るまでにはさまざまな壁がある」と指摘する。課題の設定から、データ収集・分析、業務への実装、そして定着まで、各段階で障壁が存在するのだ。
これらの壁を乗り越えるため、東京ガスが推進しているのが「データ・AIの民主化」だ。基盤の強化、人材の育成、ユースケースの拡大という3つの観点から取り組んでいる。
進化するデータ基盤と人材育成
データ基盤については、最初はマーケティングに特化した小規模な基盤から始め、全社基盤へと発展させた。現在は、経営の自立分散化に対応するため、データメッシュ型の分散基盤への移行を進めている。
「最初は電力・ガス小売全面自由化を機に、マーケティングに特化した小さな基盤からスタートしました。データサイエンティストがユースケースを先取りして定義し、徐々に利用者を拡大することで基盤を育てていきました。その後、全社的なデータ分析基盤へと発展させましたが、ホールディングス型グループ体制への移行による経営の自立分散化や変化のスピードに対応するため、近年は、データを一箇所に集めるのではなく、事業ごとに必要なデータ基盤をつくり、それらを緩やかにつなぐ分散型、いわゆるデータメッシュ型の基盤への移行を進めています」(笹谷氏)
人材育成面では、2025年度までに業務でDXを実践できる「DX活用人材」を3000名(達成済)、DXプロジェクトの中核となる「DX中核人材」を500名(276名認定済)育成する目標を掲げる。笹谷氏は「驚いたのは、ミドル層以上の活躍が目立つこと。DXやAIというと若手が得意なイメージがあるが、さまざまなツールが発展した今、むしろビジネス力こそが優れた活用の成否に直結する」と述べ、幅広い層を巻き込む重要性を強調した。
生成AIの進化は、データ・システムと人のインターフェイスに変化をもたらす
こうした取り組みの成果が現れている一方で、「PoCで止まってしまったり、いつの間にか元のやり方に戻ってしまったりする事例も残念ながら存在する」と笹谷氏は率直に課題を認める。今後の鍵として同氏が挙げたのが生成AIだ。「生成AIの進化はデータ・システムと人のインターフェイスに変化をもたらしている。真の意味で全社員が使うデータの民主化が可能になる」と期待を寄せる。
東京ガスでは、まずSaaSベースのチャットツールを全社導入し、3500名以上が利用。そのうえで200以上のユースケース案から20件以上のPoCを実施し、効果が出やすい「ゴールデンパターン」として、「RAG(Retrieval Augmented Generation)による社内データに基づく回答」「評価・分類・変換による大量テキストデータの分析」「アウトプット作成プロセスの自動化」の3つを定義し、横展開を進めている。
さらに将来的には、これらのアプリをモジュール化し、AIエージェントとして組み合わせることで、より複雑な業務改革や新しい価値創出を目指していくという。
データドリブンな企業文化の醸成に向けて
笹谷氏は講演の締めくくりで、「いかに技術や基盤が進化しても、最終的にデータやAIの活用が進むか否かは、データドリブンな意思決定を経営者や従業員が本当に望むかどうかにかかっている」と述べ、組織文化の重要性を改めて強調した。
同時に、AIエージェントの進化により、人がデータやAIを使うことすら意識しない時代の到来も示唆。「最終的には、そのときの最先端に合わせてデータ活用を実施していくためのアジリティを高めることが極めて重要な時代になっている」と語った。
東京ガスの取り組みは、伝統的なインフラ企業がいかにしてデータドリブンカンパニーへと変革していくかという、多くの日本企業にとって示唆に富む事例と言えるだろう。