仏教の哲学では、あらゆるものは「空」であるとか「実体がない」とよく言われますが、その「実体がない」とはどういうことなのでしょう。

「ミリンダ王の問い」という仏典があります。ギリシアの王メナンドロス1世(ミリンダ王)がインドを訪れ、僧たちの中の長老であるナーガセーナという人物に会った際の問答の記録がまとめられたものです。

互いに挨拶を交わし、王が名前を尋ねると、ナーガセーナはこんなことを言い出します。「私は人からナーガセーナと呼ばれている者ですが、そのナーガセーナというのは呼称にすぎず、そこに実体は存在しないのです」。

王は驚いて、「もしあなたに実体がないのだとしたら、一体何が『ナーガセーナ』なのですか?髪がナーガセーナなのですか?それとも肉や骨、心臓や血、脳髄がそうなのですか?」と身体を構成する部分について1つ1つ尋ねますが、ナーガセーナはそのいずれも否定します。

更に王は「意識がナーガセーナなのですか?もしくは今までに挙げた全てをまとめたものがそうなのですか?」と質問を続けますが、それでもナーガセーナはどれでもないと答えるのです。

困った王が「それならば、『ナーガセーナ』はどこにも見つからないではありませんか。もしやあなたは嘘を言っているのでは?」と尋ねると、ナーガセーナはこの場へやってくるのに王が使った車(馬車)について質問を始めます。

「王様が車でここへ来たのなら、その車と言うものが何であるかお教えいただけませんか。轅や軸が車なのですか?車輪が車なのですか?鞭が車なのですか?」。もちろん、王はその中のどれでもないと答えました。

ナーガセーナは「それならば、『車』はどこにも見当たらないではありませんか。王様、あなたは嘘を言っているのでは?」と先ほど王が言ったような言葉を返します。

王は「私は嘘を言っているのではありません。轅や軸、車輪や鞭などが集まってできたものを『車』と呼んでいるのです」と弁明しました。

これを受けて、ナーガセーナはこう説明したといいます。「それと同じように、髪や肉や骨、心臓や血、脳髄、意識などによって、『ナーガセーナ』と言う単なる呼称が生じるだけなのです」 さまざまな要素が相互に関係しあって(ただ部品が積んであるだけでは「車」とは呼べないので)起こったできごと(縁起)を他と区別し意味や名前を与えることによって、あたかもそれが「存在する」ように感じられるだけなのであって、それそのものがあるから「存在する」わけではないと言うのが「あらゆるものに実体はない」であったり、般若心経の有名なフレーズ「色即是空」の意味するところです。

今週のこねたものは焼きそばパンになっていますが、これも「やきそばをパンではさんだもの」、もっと言えば「こむぎこをこねて細く切り蒸したものを野菜と一緒にソースで炒めたものをこむぎこをこねてやいたものではさんだもの」という元々は非常にぼやけた何かに名前が与えられているだけであって、「焼きそばパン」という確固たる実体はどこを探してもないというわけです。

この世界には上も下も右も左もありませんでした。春も夏も秋も冬もなく、車もなければ焼きそばパンもありませんでした。しかしそんなこねて伸ばしたこむぎこのような混沌とした世界からクッキーの型を抜くように、人が意味や区別を与えることによって「存在」と、感じられるものが生まれてきます。

「週刊こむぎ」は今回で第100回を迎えますが、「100回」ということに何か特別な印象を受けるのも、混沌としたこの世界に人間がさまざまな意味を与えてきたその営みによるものなのでしょう。

■こむぎこをこねたもの、とは?

■著者紹介

Jecy
イラストレーター。LINE Creators Marketにてオリジナルキャラクター「こむぎこをこねたもの」のLINEスタンプを発売し、人気を博す。その後、「こむぎこをこねたもの その2」、「こむぎこをこねたもの その3」、「こむぎこをこねたもの その4」をリリース。そのほか、メルヘン・ファンタジーから科学・哲学まで様々な題材を描き、個人サイトにて発表中。

「週刊こむぎ」は毎週水曜更新予定です。