【母の教え】ピナクル会長兼社長兼CEO・安田育生「母が無言のうちに敷いたレールに乗ったことで、私の人生が決まった」

「母は口数が少なく、非常に素朴な人です。縁のない京都に嫁いだ苦労人でもあります」と話すのは、日本におけるM&A(企業の合併・買収)の先駆者として知られる安田育生氏。京都で生まれ育った安田氏は、母・美恵子さんが選んだ幼稚園に入ったことで「人生が決まった」と振り返る。その後、国立の小・中・高校で過ごす中で友人たちに揉まれ、成長することができたという。安田氏が感じる母の思いとは─。

東京、北海道を経て京都に嫁いだ母

 私の母・美恵子は1925年(大正14年)1月4日、東京都で生まれました。母の父親は公務員で東京都庁に勤めていたこともあり、千代田区の番町小学校の近くに住んでいたそうです。東京のど真ん中で暮らしていたことは母の自慢でした。

 その後、祖父が北海道庁に移ったことで札幌市に移り住みました。道庁の近くに住んでおり、こちらも札幌のど真ん中です。 京都市出身で大企業のサラリーマンだった父の良雄とはいとこ同士で、その縁でお見合いをして戦後すぐに結婚しました。

 父の父親までは京都で500年以上続く、西陣織の帯や小物の卸・販売を大きく営んでいたそうですが、戦時中の空襲による火災対策のための五条通の拡幅のため、店の立ち退きを余儀なくされ、没落したようです。

 京都に嫁いだ母は標準語しか話せず、京都の風習もわかりません。しかし、父方の祖母は根っからの京都人で気位が高く、母は嫁姑の関係で苦労したようです。

 母は口数が少なく、非常に素朴な人で、苦労人でもあります。気の利いた言葉を言われたことは一切ありませんが、私の人生は母が敷いたレールに乗せられたように思います。

 私は兄と姉がいる3人きょうだいの末っ子です。兄と姉が地元近くの公立の中学、高校に通ったのに対して、なぜか、私の時だけしっかりした進路計画をしたようです。

 

 京都の進学系の学校は京都教育大学附属小学校しかありません。そこで母は、私を北野幼稚園という「お受験幼稚園」に入園させたのです。受験は試験の後に抽選という流れです。試験に合格した後の抽選で合格した時に母がものすごく喜んでいたのを鮮明に覚えています。

 私の人生はそこで決まったのかもしれません。というのも、京都を代表するような、いい家の子供たちが集まった小学校で生徒のレベルが高く、そこに入れば親が教育しなくても周りの学友に高めてもらえるのです。

 私の高校での成績は平凡なものでしたが、教育大附属のレベルそのものが高かったことから、なんとかついていくだけでも、一般の高校だとかなり上位になっていたという具合でした。

 

 母が無言のうちに私をレールに乗せたというのは、そういう意味です。別の幼稚園に入っていたら運命が変わったでしょう。

 高校3年の北海道旅行で「無の境地」に至る

 私が高校3年生の時には、まだ学生運動の余韻が残っていました。私の親友を含む4、5人が全共闘の影響を受け、高校3年の1学期の中間試験の際、早朝に校庭に忍び込んで教官室の窓ガラスを割って侵入し、バリケード封鎖をして占拠、試験を止めてしまったのです。

 私も他人事ではありませんから、外から説得したりしていました。結局、80人ほどの機動隊が来て彼らを連行し、NHKのニュースにもなるような事件でした。

 

 この事件には私も精神的影響を受けて、受験体質の学校批判の思考になり、高校3年の1年間、全く勉強をしませんでした。模擬試験を受けたのですが、高校3年250人中、235位くらいだったことを覚えています。

 

その後の中間試験、期末試験は事件の影響で中止だったので普通は卒業できません。しかし学校側は、この学年は問題と思ったのか、無理やり全員卒業させたのです(笑)。

 ですから現役では大学を1校も受けず、1年間浪人しました。この1年間は友人付き合いを断ち、人が変わったように勉強しました。そのきっかけが高校3年の秋に行った北海道旅行です。ある朝、いきなり母に「ちょっと今から北海道に行ってくるわ」と言って計画もなく旅立ちました。

 電車で24時間かけて北海道に渡り、以前から見たかった摩周湖や阿寒湖などを周り、お土産物屋さんのだだっ広い2階に1人だけで泊めてもらうなど二泊三日の旅をしました。

 この間、無の境地になれたというか、自分の進路を考え直すきっかけになりました。当初は理系で建築設計士に憧れていましたが文系に転じることにしたんです。北海道旅行の際も、文系に転じる時も、母は当惑していましたが、何も言いませんでした。

 友人の多い京都大学ではなく一橋大学に行ったのは、京都から離れて、違う環境に身を置きたいという思いもありました。大学生活をエンジョイしましたが、就職の時期になり、父や友人の薦めの三菱商事から内定をもらいました。

 ただ、次の会社への面接時間の隙間にたまたま、前を通った日本長期信用銀行に時間潰しのつもりで面接を受けたところ、長期の視点で日本の産業の振興に寄与できるという面接官の言葉に魅力を感じ、長銀への入社を決意しました。

 入ってみて、いい銀行だと感じましたし、最後まで好きでした。最初に配属された上野支店でそれなりの成績を上げて、大阪支店という大きな支店に異動して大企業の担当を任せてもらいました。

 大学時代に国際経済論のゼミにいたことで国際志向があり、留学を志望しました。留学試験の当日風邪をひき、体調が最悪で不合格になりました。

 人事部も留学させるつもりだったのにどうしたのだと言われ、代わりに、ニューヨークでのワーキングビザが取りやすい、オイルマネー真っ只中の中東のバーレーン駐在員事務所に行ってこいということになりました。

 

 わずか1年ちょっとのバーレーン勤務でしたが、いろいろな経験を公私に渡りできました。特に思い出深いのは、長銀がイランの銀行に出資して、凍結されていた資金を取り戻すという、世界で2例目の案件を成功させたことです。

「M&Aこそ我が人生」

 

 予定通り、ニューヨーク支店に異動になり、米国企業向け融資を担当したのですが、これが私の人生を変えました。ウォール街のパワーゲームの論理を、身をもって体験できたことが大きかったですね。

 また、LBO(外部資金を活用した企業買収)ローン、つまりM&A(企業の合併・買収)向けのローンを日本で最初に手掛けたことがM&Aの入口になりました。

 帰国後、長銀に「M&A部」という変わった名前の部を創設することになり、それ以来40年以上、M&Aをやり続けています。

 長銀の破綻前、多くの企業からヘッドハントの話が来ていましたが断っていました。ただ、再建策の一環でSBC(スイスバンクコーポレーション)との合弁の長銀ウォーバーグ証券への転籍を命じられた時、長銀への帰り道のない転籍ならばと、オファーが来ていたGEインターナショナルへの転職を決意しました。

 GEでは、20世紀最高の経営者と言われたジャック・ウェルチの薫陶を、彼の何度かの来日時にお世話役をやったことで直接受けるという経験をしました。彼の経営手法に触れたことが、私の経営者としてのみならず、多摩大学客員教授として経営学の指導においても強い影響を及ぼしました。

 その後、リーマン・ブラザーズの熱心な誘いを受けて在日代表兼投資銀行本部長に就きました。これもトップとして数字に責任を負う立場にヒリヒリする毎日で、睡眠時間が2、3時間くらいしかなかったですね。

 結構エキサイティングで充実した日々を送っていたのですが、かねてから私は最終的には自分の理想とする「和魂洋才」の精神でアドバイスするM&Aアドバイザリー会社を設立したいと思って、20年前になりますが、今のピナクルを創設しました。

 数え切れないくらいの多くのM&A案件に携わりましたが、私にとっては「M&Aこそ我が人生」です。後に続く人たちには、M&Aの醍醐味は「日本を動かしている人を動かす」ことだと話しています。

 母は父が亡くなってからは1人で暮らし、「お父さんが亡くなってから改めて私の人生が始まった」と言って俳句、小唄、旅行を趣味にして楽しんでいました。長銀ニューヨーク時代には私の母と妻の母をアメリカに数回呼び寄せ、ナイアガラの滝などアメリカ旅行をプレゼントしました。

 母は25年11月、100歳の天寿を全うしました。その後すぐ、26年3月に彼女の生まれ変わりのように、ひ孫である私の孫が生まれ、運命を感じています。今の私があるのは、静かに私を見守ってくれた亡き母のお陰と感謝しています。