
産業界、労働界そして 学識者が一体となって
世界で『分断・対立』が続く。分断や対立はどの時代でもあり、これをいかに克服していくかというのは、世界共通の命題である。
今から70年前の1955年(昭和30年)、日本生産性本部は誕生した。当時は敗戦から10年が経ち、戦争で焼野が原となった日本は、産業界・経営側と労働側の対立が深刻化していた。GHQ(連合軍総司令部)の占領が終わった1952年(昭和27年)には、皇居外苑でデモ隊と警察部隊が衝突する騒乱事件も発生。
そのような混乱・騒動を起こしていては、戦後復興に支障をきたすということで、当時の経済・産業リーダーの間で危機感が高まった。
労使が対立するのではなく協調し、さらにそこに学識経験者の知恵を加えて、日本の復興を目指そうと、三者の協力の下、日本生産性本部はスタートした。 公益財団法人『日本生産性本部』が設立されたのは1955年(昭和30年)3月。
1955年は自由民主党が結成された年でもある。いわゆる保守合同の年とされ、これに対抗する勢力として日本社会党があり、自民党が政権を担い、〝二大政党制〟がしばらくの間続く。
政治は対立があっても、産業界はまとまっていこうと、日本生産性本部は動き出した。国の活力の源泉は経済(民間企業)であり、「生産性向上対策について」の閣議決定を受けての同本部のスタートであった。
「ええ、そういう意味では、労使協調をベースに学識者も加わって、三者が知恵を出し合う唯一の場です」
今年6月、前任の茂木友三郎氏(キッコーマン取締役名誉会長・取締役会議長)の後を受けて、同本部会長に就任した小林喜光氏(東京電力ホールディングス会長、1946年=昭和21年11月18日生まれ)はこう同本部の存在意義を語り、今の政治の混乱状況を踏まえて述べる。
「先の見えない状況で、政治も混乱し、疑似連合というか、柔らかい連合というか、いろいろな言われ方がされますね。これまでのように政権政党が絶対多数を取るとか、あるいは二大政党制を求めてやってきたのですが、自民党と社会党という時代から、だいぶ様相が変わっている。これは世界的な流れ。その中で国民との接点をどうつくっていくかという課題ですね。ここに、われわれの存在理由がありますので、日本生産性本部のやり方次第では、大いに重要な役割を果たせるのではないかと思っています」
米国で第2次トランプ政権が発足してから10カ月が経つ。この間、高関税策でこれまでの世界の貿易秩序が揺さぶられ、国際分業体制も変更を余儀なくされている。
戦後、国際社会を牽引してきた米国の国力は相対的に低下し、「米国ファースト(第一主義)」を掲げ、他国の面倒など見ていられない─という考え方が強まってきた。
トランプ流のディール(取引)はしばらく続くだろう。今は経済と安全保障が密接に絡まり、「政治が経済と切り離せない時代」だ。米中対立も深刻化し、日本は日米関係をどう再構築するのか、また、隣国・中国とどう付き合うべきか─という命題を抱える。
こうした国際情勢・経済環境の中で、〝失われた30年〟と呼ばれる低迷期からようやく脱却しつつある経済のカジ取りをどう進めていくか─。
これには国民との接点をどう持つかが重要となるが、「国民と一緒に考えていく」とする小林氏は、現状に対する国民の認識についてどう考えるのか?
「国民と一緒に考える」
「3年間の民主党の政権時期もありましたが、自民党政権は明らかにこの30年の停滞から脱する手を打てませんでした。やはり若い人を中心とした国民が、これに対して不満を持っているのだと思います。そこに、ここ3年で急激な円安が進んだ。こういった外的要因も大きいとはいえ、デフレから一気に物価高になったわけです」
小林氏はこう分析し、物価高も前年対比で3%以上になっていることについて、「特に食料品とサービスの価格が急騰しているため国民の生活に直接ダメージが出てきている。それを実感として感じているのではないでしょうか。そういう実感の中で既成政党が先の参院選で停滞してしまったのも、その不満があるからだと思います」と語る。
今夏の参院選で自民党が大敗し、その後、自民・公明の連立政権が崩壊。新政権をどの党が、そして誰が担うのか、10月初めの段階では流動的だ。 「今後についても全く予断を許さない。誰も明確な答えを持っていないのだけれども、そういう中でも皆で一緒に考えるというのが、われわれの基本スタンスです」と小林氏。
1955年(昭和30年)に日本生産性本部が設立されて以降の70年間の日本の歩みを見ると、モノづくり(製造業)で成長・発展した日本は、その後、単なるモノづくりではなく、経済のサービス化(ソフト化)が進む。DX(デジタルトランスフォーメーション)も進行し、AI(人工知能)の登場で、経済のみならず、様々なものがガラリと変化しようとしている。
第2次安倍晋三政権では、脱デフレの掛け声の下、〝3本の矢〟と呼ばれる3つの政策を柱にしたアベノミクスで経済活性化が図られた。
その内容は、大胆な金融緩和が1本目の矢、積極財政が2本目の矢、そして民間の設備投資などによる経済成長が3本目の矢であった。
金融緩和、財政出動でデフレ脱却を果たしたが、肝心の3本目の矢である「民間経済の成長」を本格軌道に乗せられるかというのは、第2次安倍政権時(2012年12月から2020年9月まで)から今日の政権までが抱える課題である。
確かに、この間、企業の業績は良くなり、賃上げも続いている。しかし、円安により輸入物価が上昇し、コストプッシュ型のインフレになっているのが現状。食料品、サービス関係をはじめとする物価上昇に賃上げが追い付かず、国民生活に打撃を与えている。また、建築分野も、資材の高騰、人手不足で、プロジェクト進行に遅れが見られるようになった。
企業業績は数字の上では良くなっており、「一定程度は元気になっているものの、新たな付加価値を生んでいないから、名目GDP(国内総生産)で、日本は世界4位だけれども、1人当たりでは38位で低迷している」という小林氏の認識。
1人当たりGDPで 世界38位にまで低下
ちなみに、1人当たりGDPのトップはルクセンブルク(14万940ドル)で、2位はアイルランド、3位スイス、4位シンガポール、5位アイスランド、6位ノルウェーと、小国や北欧勢である。
そしてGDP世界1位の米国が7位(8万5812ドル)に顔を出し、ドイツ(17位)、カナダ(18位)、英国(22位)、フランス(26位)、イタリア(28位)ときて、日本はG7(先進7カ国)の中で最低の38位(3万2497ドル)。
隣国の韓国は33位、台湾は37位で、日本の上を行く。
「そういう意味では、やはり生産性の向上が大事。この考察と具体的アクションをどうしたらいいのかということです」
ASEANやBRICSの 台頭で世界の供給網は?
今、世界ではナショナリズム(自国第一主義)が台頭。同時に、DXが進み、生成AIの登場で、人とAIの関係をどうするかという課題を抱える。
まず、ナショナリズムの台頭で、国と国がぶつかり合う現状にどう対応していくか─。
「僕は、日本生産性本部の一つの大きな重要なテーマとして、ナショナリズムが台頭する中で、ASEAN(東南アジア諸国連合、10カ国が加盟)や、グローバルサウス、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)など先進国以外のマーケットも含め、これらの国々や地域との関係をどう考え、どう対応していくかという取組みが重要だと思います」
戦後は自由主義・資本主義陣営の米国(西側)と社会主義陣営の旧ソ連(東側)とが激しく対立する東西対立の時代・冷戦構造が半世紀近く続いた。
1989年に『ベルリンの壁』が崩壊し、東西ドイツが統合(1990年)。旧ソ連邦の影響を強く受けていた東側諸国(社会主義国)が一斉に、自由主義・市場経済になだれ込んできた。
欧州各国は1993年にEU(欧州連合)を結成し、旧東欧諸国も次々とこれに加盟。現在、27カ国が参加している。
一方で、英国は2016年にEUを離脱。2016年は奇しくも第1次トランプ政権が誕生し、自国第一主義(ナショナリズム)が台頭し始めた年。
かつての〝米ソ対立〟が〝米中対立〟に変わり、グローバルサウスやBRICSといった連合体が登場、世界は多極化。
今後、これらグローバルサウスやBRICS諸国、ASEANなどとのサプライチェーン(供給網)づくりが欠かせないということ。
「もう一つは、新しいテクノロジーの登場です。AIが筆頭ですけれども、それを支える半導体やバイオ、あるいは量子コンピューティングなどの分野をどう強化育成していくかということ。AIについては、特に米国と中国がもう先進的にやっていますね。それは自動運転やシェアリングエコノミ―などに現れていますよね」
小林氏は、日本の進むべき方向と課題を挙げ、「日本では規制改革を含め、遅々として進まない。この国の体質をどうするかというところに、文字通り政治と生産性という関係も方程式的になっているような気がします」と語る。
政治と経済は一体となって、新しい時代を切りひらいていく時。日本は長い間〝茹でガエル〟状態で来たことを反省し、これを変えていく意識改革が重要という氏の訴えだ。
「AIは人間の哲学を変える」
「はっきり言って、ChatGPTにしても、グーグルのGemini(ジェミニ)にしても、明らかに普通の人がコンサルするより素晴らしいことを言ってくるんです」
小林氏は、「AIは人間の哲学を変えると思う」と強調。
哲学者のデカルトは『我思う、故に我あり』と言ったが、「AIが今、その『我思う、故に我あり』を担い始めた。では、われわれ人間とは何なのか、ということですね」
人間は、太古の昔、アメーバから進化して哺乳類になり、猿になり、類人猿になり、進化の歴史を歩んできた。
「最後はピテカントロプス・エレクトスなどに進化して、遂に人間が神になる位の所まできてしまっているわけです。『ホモ・デウス(神の人)』ではないですが、万物の霊長の中で最も勢力を広げてきた。地球上で最大の存在、進化の最終形だと思っていたのに、ちょっと待てとAIはわれわれに問いかけているのだと思います」
長い歴史の中で、それもここ5000年でこんな革命期はないという認識を小林氏は示し、「やはり森羅万象をそういう観点で見るべきだと思うんですよ。そこから始めないといけません。人間とAIの関係で、人間がもっと進化していくんだという、そういう壮大な世界に来ているのではないかと」と語る。
大言語モデル(ラージ・ランゲージ・モデル)や膨大なデータを駆使して全てを処理するAIのほうが、論理的思考を担う人間の左脳より優れているといわれる時代になった。
人間の限界性とAIの永遠性
では、『思考(頭脳)の外部化』はどんな時代を招くのだろうか?
「マン・イズ・モータル(Man is mortal)に代表されるように人は死すべき存在なのです。平均寿命が80歳になり、近く100歳になるというけれども、ただの100年しか生きられないという人間の限界。ロボットは無限ですからね。人は死すべき存在だということになると、個々の情報は蓄積されない。どんなに百科事典を覚えようが、いい感性を持とうが、その人が死んでしまったら終わり。AIは永遠に存在します。そして情報も蓄積されていく。人の世界に歴史という蓄積はあっても、個人のレベルではそれほど蓄積されることはありません」
小林氏は、戦争や侵略を繰り返している現実を念頭に、「だから、いまだにこんな事をやっているのではないかなという気がするんですよ」と語る。
人間と機械の関係で想起させられるのは、18世紀の半ばから19世紀にかけて英国を筆頭に始まった産業革命。蒸気機関などの発明で、織物業や鉄道などの産業が進行する一方で、人に取って代わって機械が仕事をするようになった。
機械が人の雇用を奪うとして、機械打ち壊し運動(ラッダイト)が起きたほど、深刻な問題として捉えられた。
しかし、この200年余の歴史を見ると、内燃機関で自動車が動き、人の往来が活発になり、モノの輸送も飛躍的に楽になった。農業でも作業がはかどり、生産性が向上し、収穫量の増大を実現してきた。
これは、機械が人の作業を軽減してくれたということ。もっと言えば、機械が人に代わって『作業』をするようになったということ。AIの場合、人に代わって『思考(頭脳)』するという点で、機械とは大いに意味が違ってくる。
「会計士や弁護士に聞くより、AIに聞いたほうがはるかに速く優れた答えが返ってくると言われています。そういう点で言えば、むしろ、エッセンシャルワーカーが大事にされる時代になるかもしれない」
日本は人口減、少子化・高齢化の流れの中で、人手不足が深刻化。代わりにAIやロボットが働くといわれるが、今後は〝貴重な働き手〟として、医療・介護や建設、飲食業などの現場で働くエッセンシャルワーカーの存在感が高まるということ。ともあれ、AIの登場で時代は激変しそうだ。
「今回の参院選で、AIエンジニアで起業家の安野貴博(1990年=平成2年生まれ)さんが政党『チームみらい』をつくって当選しましたね。今までだったら考えられないことですよ」
小林氏は、AIが政治の領域でも影響を及ぼしているという認識を示し、「だから、僕が思っているのは、AIと人との共同作業なんです」と強調する。
国と企業の関係
「国とは何か」が今、問われている。企業は国を選ぶ。日本も魅力ある国にしていかないと、内外の企業も投資してくれない。
日本の生きる道として、「今、世界をリードするGAFAM(グーグルやアップルなど)などと張り合うような領域で競争しても今さら無理。それより、日本の強みを生かして、AIと、製造業との接点をやるべきです」と氏が次のように続ける。 「AIを動かすのは半導体です。そのAIは膨大なエネルギーを消費します。逆に半導体ぐらいは省エネ型で、より密度の高い微細化をやるというのは、21世紀後半の国力増強につながる一つだと思いますね。その辺りが生きる道ではないですかね」
小林氏は東京大学大学院(理学系)を経て、イスラエルのヘブライ大学、イタリアのピサ大学で学んだ。
故国を追われて世界各地に飛び散り、約3000年の流浪の旅に出たユダヤ民族が神に約束されたカナンの地に現在のイスラエルを建国したのは1948年のこと。以来77年、この間に4度の中東戦争を経験。今回もイスラム軍事組織『ハマス』との戦闘が約2年続き、ようやく停戦に至った。若き日、そうした治乱興亡の中で小林氏はヘブライ大学で学んだ。
国とは何か、人は何のために生き、働くのかという問いを抱いての留学。その後、小林氏は三菱ケミカルホールディングス社長を務め、経済同友会代表幹事に就任(在任は2015―19)。代表幹事時代に、ハイテク研究の進むイスラエルを訪問。『イスラエル建国の父のひとり』とされるシモン・ペレス元首相(1923―2016)と会談した。
『未来から学ぶ』意義
「代表ミッションで訪ねたんですが、9年前のその当時、すでにシェアリングエコノミー(共有経済)や自動運転、さらにはドローンやAIのことなどを言っていました。彼は農業のキブツ(集団農場)出身の人で、種の研究や海水の淡水化にも詳しい。また(エジプトなどの)シナイ半島をめぐる戦いも経験した指導者です。その時に、〝I learn from future〟(わたしは未来から学ぶ)と言ったんですよ」
未来から学ぶ─。常に危機に接している『イスラエル建国の父』からこの言葉を聞いた時に、小林氏は考えさせられた。
「もう過去は分かっていると。みんな歴史から学ぶというけれども、これほどテクノロジーが進化して、サイエンスが進化する時代は、未来から推定して、今何をすべきかを考えることがむしろ大事だと」
ユーラシア大陸の一番端にある島国で、ほとんど外敵の侵入を受けたことのない日本。そして安全と水はタダという日本とは対極にあるユダヤ民族。
普段は宗教を意識することなく生活する日本人と、ユダヤ教を徹底して信じるイスラエルの民。若き頃、この違いはどこから生まれてくるのかを考え、『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン=山本七平著)を読み、「人とは何か」の原点を見ようと小林氏は同国に留学した。
歴史を頭に留めながら、「未来から学ぶ」姿勢は危機時にこそ大事だと氏は感じた。 日本の生産性向上にも、この視点から、「今何をすべきかを考えたい」と言う小林氏である。