ベンチマーク結果が明らかになり始めてから評価が一変したM1チップ搭載Mac。それゆえ、「なぜスペシャルイベントの説明でそこにフォーカスしなかったんだ!」という声も聞こえてくる。イベントでAppleは処理性能に関して「CPUの処理能力が最大2.8倍高速」とか、「同等クラスで最も売れているWindowsノートPCに比べて最大3倍高速」とアピールしたものの、比較対象があいまいな説明で、ベンチマークの数字も示さなかった。また事前の予測でARMベースのチップの処理性能に対する期待がそれほど高くなかったこともあって、その時点で速さに関しては眉に唾を付ける受け止め方が優勢だった。ところが、フタを開けてびっくりである。

  • 発表のリリースや製品のWebサイトを確認すると比較の対象やテストの詳細が記載されているが、イベントでは速くなったことを簡潔にアピールする説明のみだった。

    発表のリリースや製品のWebサイトを確認すると比較の対象やテストの詳細が記載されているが、イベントでは速くなったことを簡潔にアピールする説明のみだった。

今イベントをふり返って、Appleのプレゼンテーションは、良くも悪くも「ベゾス・チャート」と評されている。ベゾス・チャートとは、Amazonのジェフ・ベゾスCEOが過去にイベントなどでで示してきたグラフを指す。例えば2014年、それまで非公開にしていたサブスクリプションプログラム「Amazon Prime」の会員数に初めて触れた際に示したグラフだ。各年の会員数を棒グラフで現していたが、グラフの縦軸に数値が付されていない。そして会員数を「Tens of millions of Prime members」としていた。Prime会員が急増しているのは伝わってくるが、2000万人ぐらいかもしれないし、1億を視野に入れられるような規模に達しているかもしれない。Tens of millionsでは幅が広すぎて参考にならない。グラフは示したけど、非公開も同然。ベゾス・チャートは肝心の役割を果たしていないものの意で笑い話のネタになっている。

  • 2014年に示したPrime会員数のベゾス・チャート。Amazonはさらに数年、2018年に1億人を突破するまでPrime会員の具体的な数字に言及するのを避け続けた(@panzer)

しかし、Amazonがそうまでして会員数の数字を示さなかったことには理由がある。同社はPrime以外にも電子書籍リーダー端末のKindleや携帯電話Kindle phoneの販売台数を非公開としてきた。それらに共通するのは、消費者がそれまでに体験したことがない未知の製品であること。それがどのような製品かすでに消費者が知っていて、数ある競合と競争している製品なら、会員数や販売台数がライバルとの競争を勝ち抜く上で意味を持つ。だが、例えばスマートフォンが台頭し始めた頃にフィーチャーフォンと販売台数を比べることが意味をなさなかったように、未知の製品が新たに市場を開拓する上で販売台数や会員数に評価が集中するのは望ましいことではない。新たな製品の体験を消費者に知ってもらうことが重要である。

今回発表されたM1チップ搭載Macは筐体デザインがIntelチップ搭載Macと同じであるため、ベンチマーク結果にIntelチップとM1チップの性能差が純粋に現れる。だから、ベンチマークに注目が集まるのは仕方ないし、M1チップ搭載Macを手にした人達の関心は今、4K動画編集やXcodeでのビルドなど、これまで普及価格帯のMacでは困難だったこと、これまでプロ向けのMacを必要としていた作業に傾いている。

ただ、MacBook Airや13インチのMacBook Pro、Mac miniは一般ユーザー向けのMacである。誰もが高度な動画編集やプログラミングに挑戦できるようになるのは素晴らしいことだが、M1を搭載したことで普通のMacユーザーの日々のMacの使い方も変わる。普及価格帯のMacを購入する人達にとっては、むしろ日常の変化の方が重要だ。だから、Appleはイベントでベンチマークの数字を示さず、動画エンコーディングやコンパイルの速さも強くアピールしなかった。それで何をやってみせたかというと、iPhoneやiPadと同じようにMacBookを開いたらすぐに使えるようになるスリープからの復帰の早さを示した。「M1を搭載して復帰が早くなるだけ…」という声が聞こえてきそうだが、多くの調査でパソコンユーザーがタブレットを頻用し始める理由のトップ3に「いつでもすぐに使える」が入っている。たかが復帰スピード、されど……だ。ベンチマーク結果のようにM1チップのスゴさを直接的に示すものではないが、カジュアルユーザーを含む全てのユーザーが快適さを実感することである。

  • iPhoneを持ち上げたらすぐに画面が点くように、M1搭載MacBook Airも開いたらすぐにスリープから復帰

Appleウオッチャーとして知られるジョン・グルーバー氏はレビューで、M1搭載のMacBook AirとMacBook Proを比べて次のように指摘している。

「ファンレスで常に静音で動作するAirの方がMacBook Proより優位性があると見るMacユーザーがいるが、そのような見方は誤りだと私は思う。私の体験では、MacBook Proも常に静音である。アクティブクーリングシステム(冷却ファン)が何をしようとも少しのノイズも発さない」

静音動作を実現するならファンレスという従来の常識をM1搭載Macは覆している。今はMacに関心を持つ人達の目がベンチマークというものさしに囚われている感があるが、ベンチマーク結果からは読み取れない新たなMacの体験がこれから発見されていくだろう。そうした新しい体験は、一度使い慣れてしまうとその前には戻れなくなる。不可逆な体験になる。