海水浴場に打ち寄せる波と津波は、重力によって伝わる海面の凹凸という意味では、まったく同じものだ。違うのはその波長、つまり波の山から次の山までの距離だ。サーフィンや海水浴でおなじみの波は風が作る波で、その波長はせいぜい数百メートルだ。それに対し、地震などで海底地形が急に変化して発生する津波の波長は、数百キロメートルにもなることがある。波長がこれだけ違うので、波にともなう水の動きも、まったくの別物だ。風の波だと水の動きは海面の近くに限定されるが、津波の場合は、海面から海底までの水がいっせいに押し寄せ、そして引いていく。巨大な津波は、押し寄せる水の力で海底の物まで破壊して運ぶ。

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    図1 (左)沖縄県・石垣島の位置。南の海底に「琉球海溝」が走っている。(右)トレンチ(溝)を掘って調査した場所。図中の数字は、1771年の八重山津波が陸にはい上がった高さ(単位はメートル)。古文書から推定している。(図はいずれも安藤さんら研究グループ提供)

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    図2 今回の分析対象にしたトレンチ(溝)。「浜堤(ひんてい)」は、海から打ち上げられた砂などが作った盛り上がった地形。

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    図3 トレンチ(溝)の内部。

大津波の威力を物語る国の天然記念物が、先島諸島の石垣島にある。津波によって打ち上げられた、いくつもの大きな「津波石」だ。差し渡しが10メートルを超える巨岩もある。石垣島を含む八重山列島の近くでは、1771年に「八重山地震」が起きた。津波石は、そのとき発生した八重山津波や過去の大津波で、打ち上げられたり移動したりしたと考えられている。

1771年の八重山地震では石垣島を中心に津波の被害が大きく、約1万2000人が溺死した。陸を駆け上がった津波は、海面から30メートルの高さに達したらしい。古文書で確認できる大津波はこれだけだが、津波石の分析などから、過去にも数百年から1000年くらいの周期で繰り返し津波が発生したとみられている。この地域の南側には「琉球海溝」があり、そこに沖合いからフィリピン海プレートが年に12.5センチメートルほどの速さで潜り込んでいる。八重山地震はこの琉球海溝で起きたとも考えられており、もしそうだとすれば、東日本大震災を起こした日本海溝の地震と同様に、一定の周期で繰り返す性質がある。

大地震や大津波の周期を調べるには、その証拠が記録された地層を手がかりにするのが有力な方法だ。新しい時代の地面が古い地面の上に重なっていく陸上の地層に、津波で運ばれてきた砂などが堆積物として残っていれば、そこまで津波が到達したことがわかる。八重山津波についても、運ばれてきた砂が堆積した地層が見つかったことはあるが、周期的に襲ってきたはずの過去の津波まで記録した地層は、まだ見つかっていなかった。それを発見したのが、静岡大学防災総合センターの安藤雅孝(あんどう まさたか)客員教授らの研究グループだ。

安藤さんらは、石垣島と宮古島の計8か所で溝を掘って地層を確かめてみたが、農地改良などで古い地層が壊されていることが多く、やっとそれを見つけたのが、石垣島の牧場だった。ここに、深さ2メートル、長さが120メートルの、ほぼ海から内陸に向かう溝を掘り、そこに現われた地層を分析した。

その結果、海から運ばれたとみられる二枚貝を含んでいる4つの層が確認できた。生き物が死んでから現在までの年数を推定できる「放射性炭素年代測定」という方法で調べたところ、いちばん新しい層は1771年の八重山津波に対応し、ほとんど同じ規模の津波が過去約2000年に計4回あったことが分かった。繰り返しの平均間隔は約630年だった。

また、いちばん新しい地層の直下から、縦にくさび状に入った割れ目もいくつか見つかった。1771年の八重山津波を起こした地震は、津波が大きいわりに地震の揺れが小さい「津波地震」だったとみられているが、この割れ目は、地面が激しく揺れたことを示しているという。

1771年の津波から、250年近くが経過した。この点について、安藤さんは「今回の研究結果は、『次の津波まで、まだ600年の半分が残っている』という意味ではない。繰り返しの間隔が600年といっても、それぞれの津波の時間間隔はまちまちだし、今回の研究で対象にした溝は標高が10メートル近い高い場所にあるので、かなり大きな津波でなければ記録に残らない。もうすこし小さな津波は、ほかにあるかもしれない」と説明する。「不測の事態に備える」という防災の基本が、やはり大切なようだ。

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