量子力学の教科書に載るような新しい実験が報告された。20世紀物理学の巨人、アインシュタインとボーアの間で1930年前後に展開された熾烈な量子力学の解釈論争は物理学に大きな刺激を与え続けた。その論争で使われた2重スリットの思考実験を分子レベルで実現することに、東北大学多元物質科学研究所の上田潔(うえだ きよし)教授らが初めて成功した。フランスのソレイユシンクロトロン放射光施設のカタリン・ミロン研究員、刘小井(リュー・シャオジン)研究員、スウェーデン王立工科大学のファリス・ゲルムハノフ教授らとの国際共同研究で、12月1日付の英科学誌ネイチャーフォトニクスのオンライン版に発表された。

図1. (a)と(c)は、アインシュタインとボーアの論争で使われた2重スリット思考実験の模式図。2個のスリットが固定された場合(a)とそれぞれ独立して動くことができる場合(c)。(b)と(d)は、2重スリットを2個の酸素原子に置き換えた本実験の模式図。2個の原子が結合している場合(b)と独立している場合(d)。(提供:東北大学上田潔教授・フランスシンクロトロンソレイユCatalin Miron博士)

科学史上最も有名な量子力学論争で思考実験として提案されたのが2重スリット実験だった。細長く切った隙間(スリット)が並行に2つ並んだ板を光が通過すると、スクリーンに干渉縞が現れる。量子力学では、電子などは粒子と波の両面の性質を兼ね備えており、2重スリットの実験をすると、電子が干渉縞として観測される。この思考だけの実験は物理学者の想像をかき立て、量子力学を鍛えた。ミクロの計測技術の進歩に伴って20世紀末には実際に実験できるようになり、量子力学の建設に関わったボーアらの正しさが今や認められている。しかし、この2重スリットを通過した電子などによってどちらかのスリットが反跳運動量を受け取る場合の実験の検証はできていなかった。最後の詰めが残っていたのだ。

図2. 2重スリット思考実験を分子レベルで実現した実験結果(左)と計算結果(右)。高速電子の反跳運動量からどちらの原子が電子を放出したかを決定できない場合は、2重スリット実験で観測される干渉縞と同様な干渉パターンが観測され(上)、決定できる場合は干渉縞が消える(下)。(提供:東北大学上田潔教授・フランスシンクロトロンソレイユCatalin Miron博士)

国際チームは、2重スリットを2個の酸素原子に置き換えて巧妙な実験をした。フランスの中型高輝度放射光施設ソレイユの最先端の軟X線ビームラインで、酸素分子を励起し、放出された電子と電子放出で生成されたイオンの運動量を同時に計測した。実験の結果、酸素分子か解離した酸素原子と、高速電子との間の運動量の交換を測定することに成功した。

国際チームは2つのシナリオを考えた。第1は、高速電子の放出が酸素分子の解離の前に起きる場合で、2個の酸素原子、つまり2つのスリットはつながっていて、2個の酸素原子が受ける反跳運動量は同じとなる。このため、どちらの原子が電子を放出したかは決定できない。第2のシナリオは、分子が解離してから高速電子が放出される場合で、一方の酸素原子が高速電子の反跳運動量を受け取るため、どちらの原子が電子を放出したかを決定できる。この2つのシナリオに相当する現象をそれぞれ観測し、第1の場合には、干渉縞が現れ、第2の場合には干渉縞が消えることを実証した。

上田潔教授は「アインシュタインが提案した動く2重スリットの干渉実験を分子レベルで実現するのは難しかったが、放射光施設の世界最高の軟X線ビームと最新の計測技術などを動員して達成した。論争にあるようにスリットと電子との運動量交換を観測し、電子の経路が指定できた場合に干渉縞が消え、電子の経路を観測できない場合に干渉縞が現れることを実証したのは初めてで、ボーアの反論を裏付けた。これが2重スリット実験の最終決着だ。この実験は量子力学の計測や制御の進歩にも役立つだろう」と話している。