アルファベットの「a」には、下のようにシングルストーリー(1階建て)とダブルストーリー(2階建て)があり、見た目がかなり違います。「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。
さて、Appleの開発者カンファレンス「WWDC」まで、いよいよ1カ月を切りました。今年は、iOSやmacOSにおける大規模なデザイン変更が予想されています。そんな中、米Engadgetのネイサン・イングラハム記者が「Appleの大規模な2025年のリデザインで望む唯一のものは……」という記事を公開し、多くの読者から共感の声が寄せられました。
彼が変更を望むものは「メモ」アプリにおける「a」の表示です。
メモアプリでaを入力すると、1階建ての「a」が表示されます。これは主要なアプリ、特にメモのように、文字の読みやすさが重視されるアプリにおいては、異例とも言えます。メモではフォントを変更できないため、ユーザーはこの1階建ての「a」を使うしかありません。Apple純正アプリの中でも、こうした表示をしているのはメモだけです。
1階建てと2階建ての「a」は異なる用途や目的を持つ
1階建てと2階建ての「a」は、それぞれ異なる用途や目的を持っています。前者は手書き風の親しみやすい形、後者は印刷物などでの視認性・判読性を高めた形です。実際、雑誌や書籍、新聞といったメディアでは、ほとんどが2階建ての「a」が使われています。
私たち日本人からすると「aはaでしょ?」と感じるかもしれません。しかし、それは英語を学ぶ時期が遅かったから。英語を母語として育った人にとっては、この違いはかなり気になるポイントなのです。
というのも、英語の絵本や児童向け教材・書籍では、アルファベットの書き方を活字風で覚えないように、手書きに近い1階建て「a」が使われることが多いためです。「1階建て“a”= 絵本・児童書」というイメージなのです。
この10年でメモアプリは大きく進化しました。かつてはシンプルなテキストエディタだったのが、リッチテキストや手書きに対応し、高度な整理機能を備え、さまざまな添付ファイルを扱える高機能ノートに変貌しています。
Twitterの共同創業者ジャック・ドーシー氏はすべての情報をメモに集約し、いつもiPhoneでメモを開いて考えていると述べていました。
それだけハイスペックなツールであるにもかかわらず、表示される「a」が絵本時代に親しんだ1階建て……となると、少しギャップを感じてしまいます。極端にいうと「仕事にジャポニカ学習帳」みたいな感じでしょうか……。
1階建て「a」を使う理由をAppleは明かさず
Appleは2015年に自社開発フォント「San Francisco」を発表し、iOSやmacOSのシステムフォントとして広く採用しました。しかし、メモアプリでは、San Franciscoの中でも代替字形(スタイリスティックセット)が有効になっており、aが1階建てで表示されます。
この変更について、Appleは公式な理由を明かしていません。しかし、デザインコミュニティやユーザーの間では、いくつかの推測や考察が語られています。
ひとつは、メモが初代iPhoneから存在する由緒あるアプリであり、当時のスキューモーフィズム(リアルな質感を模したデザイン)の狙いが「今に引き継がれている」という説です。当時は、手書き風の「Marker Felt」(筆記体風フォント)が使われており、1階建て「a」はその趣を感じさせます。
また、メモは個人的なアイデアやリストを書くための空間であり、あえてフォーマルな印象を避けて「親しみやすい雰囲気」を演出しているという見方もあります。「親しみやすい」または「近づきやすい」デザイン言語という考え方です。
一方、San Franciscoフォントのスタイル代替を試験的・装飾的に使ってみるのに適していたためで、「他に深い意味はない」という現実的な意見もあります。
1階建て「a」がメモの利用増に大きく貢献した例が1つあります。Twitter時代の長文メッセージ投稿です。ポストに使えるテキスト文字数が少なかった時代に、Twitterユーザーはメモアプリで文章を作成してスクリーンショットを撮り、その画像を投稿していました。
それに最も使われたのがAppleのメモでした。iPhone標準搭載で使いやすかったということもありましたが、フレンドリーで砕けた印象の字形が個人のメッセージとしてよくなじみ、他のメモアプリにはない差別化要素となったところがありました。
タイポグラフィ戦略の重要性を示す好例
このように、メモの1階建て「a」については、ユーザーやデザイン業界からさまざまな反応があります。
Appleはヒューマンインターフェイスガイドライン(HIG)で判読の重要性を説いており、また一貫性のあるデザインを重視する企業でもあります。にもかかわらず、メモで1階建て「a」を採用していることに対し、「毎回この“a”が目について気が散る」という不満や「奇妙な統一破り」とする批判が開発者フォーラムなどで見られます。
一方で、前述の通り「スクショを見ただけで“メモ”だとわかる個性」や「タイポグラフィにまで徹底してこだわるAppleらしさの表れ」として評価する声もあります。
特にタイポグラフィやUIデザインに興味のある層からは「Appleがシステムフォントのスタイリスティックセットを活用している事例」として注目されていたり、「デザイン・トリビアとして楽しい」という反応もあります。
AppleはHIGの中で判読性だけでなく、コンテンツへの配慮、親しみやすいタイポグラフィの価値も強調しています。そう考えるとメモアプリの「a」は、単に文字を表示するだけでなく、感情のトーンを調整し、アプリを“個人的な空間”として感じさせるブランディング手法のひとつなのかもしれません。
とはいえ、メモの役割が変化しているのも事実です。個人的には、もし選べるなら、やはり2階建ての「a」を使いたいと思っています。
たかが一文字。されど一文字。この「a」をめぐる騒動は、タイポグラフィがユーザー体験にいかに大きな影響を与えるかを物語っています。「メモ」の「a」に対する評価は分かれていますが、総じて言えるのは、これは「タイポグラフィ戦略の重要性」を示す好例であるということ。
たとえごくわずかな違いであっても、デザイン上の一貫性の乱れはユーザーの感じ方や体験に影響を及ぼします。逆に言えば、微小な部分であっても、積極的に演出に活かすことで、ユーザーに無意識のうちにブランドの個性を感じさせることができるのです。