長くメールを使っている人で、ライフハックに関心がある人なら「インボックス・ゼロ」という言葉をご存知だと思う。その提唱者であるマーリン・マン氏がインボックス・ゼロではもう効果が望めないと述べている。「えーっ!」と思う人も多いのではないだろうか。それぐらいインボックス・ゼロは強烈なインパクトの与えた仕事術だった。

  • 初代iPhoneが登場した2007年、マーリン・マン氏がGoogleのTech Talkで「インボックス・ゼロ」の仕事術について講演

マン氏がインボックス・ゼロを提唱し始めたのは2004年。Googleも採用する仕事術として注目を集めるようになり、例えば2012年にThe New Yorkerが「革新的なEメールシステム」と紹介している。その後、「Mailbox」(2013年にDropbox)のようなインボックス・ゼロを取り入れたメール・クライアントが登場、GmailやOutlookなどの自動分類機能の実装にも影響が及んだ。

インボックス・ゼロがどのようなものかというと、文字通り、インボックス (受信トレイ)にメールをためない。すぐに対応する必要がないメールでも「夜に対応」「週末に対応」というようなサブフォルダに分類し、とにかくインボックスを空にする。インボックスにメールが並んでいると、それらを見るだけで仕事に追われている気分になるし、目に入る情報が多ければ多いほど頭の中がゴチャゴチャしてしまう。件名でおおよその内容が予想できるとはいえ、開いてみないと本当の重要度は判断できない。封書を受け取ったらすぐに封を切るのと同じで、とりあえず内容を確認する。それらをやっておくだけで、メールに関わるストレスが大きく軽減される。インボックスにメールをため込んできた人が最初に空にするのは一苦労だけど、ひとたび空状態を達成できたら、それを維持していくのはそれほど難しくはなかった……のだが、

マン氏の考えが変わったのはメッセージの量とインボックスの数が増えたから。メールでやり取りするコンタクトは増えこそすれ減ることはない。スパムや宣伝メールを自動分類で目につかないようにしても、長くメールを使い続けていたら受信トレイ内のメールは増えていく。それ以上に問題なのがインボックスの増加だ。マン氏がインボックス・ゼロを広めていた頃、同氏のインボックスは1つだけだった。それが今は、仕事用のメール、個人用のメール、TwitterやInstagramのダイレクトメッセージ、複数のメッセンジャー、Slackと、インボックスのような存在が増え続けている。それら全てでインボックス・ゼロ状態を維持するのは時間も労力もとられる。つまり、もうインボックス・ゼロでストレスフリーにはなれないというわけだ。

  • インボックス・ゼロは、シンプルに徹した分かりやすいシステムだったから多くの人に影響を与えたが……

では、どうすれば良いかというと、重要なものとそうでもないものをトリアージ (優先順位/優先度を判断・分類)する自分の方法を見いだすこと。今やインボックスにはその人の生活の全てが収められていると言っても過言ではない。人が人生の中で重要なものを選択するように、インボックスの中身もトリアージしていく。全てのメッセージに同じように取り組むのではなく、自分にとって重要なものに集中して力を注ぐ。スティーブ・ジョブズ氏の「やらないことを決める」に通じるメソッドである。

でも、ソリューションは千差万別だ。マン氏は1日に3回、インボックスを処理するためだけの時間を設けているが、重要なメールにはすぐに返信できる状態であり続けなければならない人もいる。効率的にタスクを処理する方法は人によって様々であり、インボックスに関わる時間を減らす方法はたくさんある。逆に言うと、これが絶対という万人共通の方法はない。10年前のインボックス・ゼロが「インボックスを空にする」という分かりやすい目標で誰でも簡単に実践できたのに比べると、トリアージは難しい。

Eメールの歴史においてこれが何度目かは分からないが、従来のEメールからデジタルコミュニケーションを進化させようという動きがいま活発化している。

例えば、Basecampの「Hey」とSuperhuman Labsの「Superhuman」。どちらも有料のメールサービスだ。「Hey」は年額99ドル。初めての送信者からのメールのスクリーニング、重要なメールや後で対応するメールの分類、複数のスレッドのマージといった機能でメール整理を自動化。メールマガジンのような時間がある時に読むメールもRSSリーダーのように効率的に読めるようにしている。インボックス・ゼロが困難になってきた現実に自動化で挑むメールサービスだ。

  • App Storeのビジネスモデルを巡ってAppleともめたことでも話題になった「Hey」

重要なメールを自動的に分類できても、ほとんどのメールにすぐに対応しなければならないような職種だと大量のメールに直面することに変わりはない。「Superhuman」は豊富な機能がパワフルに動くスピードとレスポンスにこだわっており、「Eメールサービスのフェラーリ」と呼ばれている。月額30ドルとメールサービスとしては高いが、1日に3時間以上もメールに費やすような人達をターゲットに、快適なスピードと高品質なサービス体験でメールの生産性を引き上げる。

Slackの「Slack Connect」のように、メールの進化ではなく、メールの置き換えを狙ったサービスもある。最大20の組織で1つのSlackチャンネルを共有可能。重要な顧客、ベンダー、パートナーとのやり取りを1か所にまとめ、リアルタイムでやり取りすることで関係性を強化し、メールでのやり取りよりも意思決定やワークフローのスピードアップを図れる。

Basecampのジェイソン・フリード氏は「慣れ親しんだものに初心者の気持ちでアプローチするのはとても難しい」と述べている。EメールはWeb以前のインターネットから根強く残るコミュニケーション手段である。それを普遍的なものにしている理由が同時に、その変化と改善を困難なものにしている。従来のメールが今度こそ遺物と化すかどうかは分からないが、インボックス・ゼロの限界は、従来のメールに基づいたライフハックの限界を示す。