微小重力環境は人体に多様な悪影響を及ぼすことが知られており、国際宇宙ステーション(ISS)に半年以上の長期滞在をした宇宙飛行士は、ほぼ例外なく筋量やカルシウムの減少が生じる。また、地球帰還直後には、ふらついたり転倒しやすくなったりすることも知られており、その原因として耳の平衡感覚器官の微小重力環境での変化が考えられるが、どのように変化するのかはこれまで詳しくは解明されていなかった。
福井大学と筑波大学は、ISSに長期間滞在した宇宙飛行士と、ISSで35日間飼育したマウスを対象にした解析を実施し、耳の平衡感覚器官のうち「球形嚢」(きゅうけいのう)が宇宙環境で選択的に変化することが分かったと、8月25日に共同発表した。
また、宇宙飛行士では帰還直後に球形嚢の機能低下と姿勢バランスの低下が認められ、その一部は微弱な前庭電気刺激(noisy GVS)によって改善することを確認したことも併せて発表された。
同成果は、福井大 学術研究院医学系部門 医学領域 形態機能医科学講座 生理学分野の安部力教授、岐阜大学大学院 医学系研究科の森田啓之名誉教授、筑波大 医学医療系の村谷匡史教授らの共同研究チームによるもの。詳細は、米国科学アカデミーが刊行する、自然科学から社会科学まで幅広く扱う総合学術誌「PNAS」に掲載された。
なぜ宇宙飛行士は地球帰還後にふらつくのか?
ヒトは、1Gの重力・1気圧の大気・強い磁場という、宇宙から見ればきわめて小さなローカル領域である地球上で進化してきたため、この環境に特化した生き物である。日々生活する中で、ヒトは重力を利用して、または対抗して筋肉を働かせて姿勢を保ったり、歩行したり、さらには視線を安定させたりしている。そして、この重力情報を感知して、地面に対して身体を垂直に維持するために活躍しているのが、耳の奥にある「前庭器官」だ。
しかし、地表から高度わずか数百kmの地球周回軌道に入るだけでも、重力刺激がほぼなくなるため、ISSに長期滞在した宇宙飛行士は地球帰還後にふらつきや歩行障害などの平衡機能障害を経験する。今後、アルテミス計画や有人火星探査など、より長期間の宇宙滞在が計画されているが、その原因を解明し、予防法を開発することは重要な課題となっている。
これまで、宇宙飛行によって前庭機能が変化することは知られていたが、耳のどの感覚器官が変化しているのか、その分子メカニズムの詳細はわかっていなかった。その理由の1つは、前庭器官がきわめて小さく、宇宙実験で得られた限られた試料から詳細な遺伝子解析を行うことが技術的に困難だったためだ。
そこで研究チームは今回、ISSで35日間飼育したマウスから、耳の前庭器官である球形嚢と「卵形嚢」(らんけいのう)を個別に回収し、それぞれの遺伝子発現を解析できる独自の技術を開発。これにより、宇宙環境によってどの器官が最も影響を受けるのかを分子レベルで調べることが可能となったことから、マウスでの詳細な調査と、ヒトにそれが当てはまるかの検証を行うことにした。
今回の研究成果
球形嚢は前庭器官の1つで、主に上下方向の重力や加速度を感じる「重力センサ」としての役割を担う。卵形嚢も前庭器官の1つで、主に水平方向の加速度や頭の傾きを感じる感覚器官である。今回の研究では、検証のため、ISSに157〜328日間滞在した宇宙飛行士を対象に、平衡機能や球形嚢・卵形嚢の機能が詳細に評価された。今回の研究で見出されたマウスの分子レベルの変化と、宇宙飛行士で認められた生理機能の変化を統合することで、宇宙環境に対する前庭器官の適応メカニズムの解明が目指された。
ISSで35日間飼育したマウスの球形嚢と卵形嚢について、細胞内でどの遺伝子がどの程度働いているのかを網羅的に調べる「RNAシーケンス解析」を実施し、宇宙環境による遺伝子発現の変化が比較された。その結果、球形嚢では数百種類の遺伝子発現が変化していた一方、卵形嚢では大きな変化は認められないことが明らかにされた。
さらに、変化した遺伝子の詳細な解析が行われた。すると、神経細胞間の情報伝達を担うシナプス機能や、神経回路の適応に関わる遺伝子群が多く含まれていることが判明。また球形嚢では、通常は卵形嚢に特徴的な遺伝子発現パターンへ近づく変化が認められ、微小重力環境に適応するために分子レベルで再構築(リモデリング)が起こっていることが示唆された。
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(A)マウスの耳の平衡感覚器官(球形嚢・卵形嚢)の遺伝子発現の主成分分析結果。地上飼育マウスと宇宙飼育マウスの卵形嚢では、遺伝子発現パターンに大差はなかった。一方、球形嚢では宇宙マウスの遺伝子発現パターンが地上マウスと大きく異なり、宇宙環境による影響を強く受けることが示された。(B)遺伝子発現のヒートマップ。赤色は遺伝子発現量が高いこと、青色は低いことを示す。宇宙環境では球形嚢において多数の遺伝子発現が変化した一方、卵形嚢では大きな変化は認められなかった。これらの結果から、耳の平衡感覚器官全体が一様に変化するのではなく、球形嚢が選択的に重力環境へ適応することが解明された (出所:福井大ニュースリリースPDF)
次に、ISSに157〜328日間滞在した宇宙飛行士を対象に、「前庭誘発筋電位(VEMP)検査」を用いた、球形嚢と卵形嚢の機能評価が行われた。その結果、球形嚢の機能を反映する「cVEMP」は地球帰還直後に有意に低下していたのに対し、卵形嚢の機能を反映する「oVEMP」には明らかな変化は認められなかったという。
加えて、半規管機能を評価する温度刺激検査(カロリックテスト)でも異常は認められず、宇宙飛行による影響は前庭器官全体ではなく、球形嚢に選択的に生じていることが突き止められた。また、宇宙飛行士の姿勢バランスを評価したところ、地球帰還直後には重心動揺が増加していたが、「微弱前庭電気刺激」(noisy GVS)を行うことで姿勢バランスは有意に改善することも示された。
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(A)卵形嚢の機能を評価する検査(oVEMP)の代表波形。宇宙飛行前(青)と地球帰還後(橙)を比較しても、波形に大きな変化は認められず、卵形嚢の機能はほぼ維持されていた。(B)球形嚢の機能を評価する検査(cVEMP)の代表波形。地球帰還後(橙)では、宇宙飛行前(青)と比べて波形の振幅が小さくなり、球形嚢の機能が一時的に低下していたことが示されている (出所:福井大ニュースリリースPDF)
以上の結果から、微小重力環境では耳の前庭器官全体が一様に変化するのではなく、球形嚢が選択的に変化することが解明された。また、マウスで認められた球形嚢の分子レベルでの変化と、宇宙飛行士で認められた球形嚢の機能変化は、球形嚢が宇宙環境への適応に重要な役割を果たしている可能性が示されたとしている。
研究チームは今後、球形嚢で変化した遺伝子や神経回路が重力環境への適応に果たす役割をさらに詳しく解析し、その分子メカニズムの解明を進めるという。また、今回の研究で有効性が示された微弱なnoisy GVSについて、月・火星探査などの長期宇宙滞在後のリハビリテーションへの応用を目指すと同時に、加齢に伴う平衡機能低下や転倒リスクの高い高齢者、前庭疾患患者に対する新たな予防・治療技術としての応用も期待されるとしている。