
日本で初めて電話回線やPCシステムを使用したチケット販売システム「チケットぴあ」を発想した矢内氏。同氏は約50年前、今でいう学生起業家としてエンタテインメント情報を掲載した『ぴあ』を発刊。その後、電話回線を利用したチケットぴあを開発し、店頭に行かなくてもチケットを購入することができる状態をつくった。常に新しいことに挑戦する同氏を、当時たくさんの財界人が応援したということも事実。当時のやりとりを詳しく語ってもらった。
大物財界人が相談役を引き受け
─ 前回は元通産次官・余暇開発センターの理事長だった佐橋滋さんとの出会いを語っていただきました。オンラインのチケットシステムを開発して佐橋さんに見せたとき、佐橋さんが「君の応援団が必要だ」と言ってくれたということでしたね。
矢内 はい。応援団というのは一体どういう意味なんだろうと思いまして、わたしは恐る恐る「佐橋理事長、その応援団というのはどういう方ですか」と聞いてみたのです。
佐橋さんは「うんそうだな。まずは日本精工会長の今里広記さんかな」とおっしゃるのです。今里さんは、当時歌舞伎をヨーロッパに紹介するということもやられたり、松竹の社外取締役も務めておられました。
そして、「もう一人は三井不動産会長の江戸英雄さんだ」とおっしゃるのです。江戸さんは、クラシックに精通されておられて、ヨーロッパからクラシックを日本に持ってくるといったことをされておられました。お嬢さんもピアニストであり、江戸さんもいいと。
そして、「もう一人はちょっと若いけど、サントリーの佐治敬三さんだな」とおっしゃるのです。
─ まだその頃、サントリーホールはできていませんでしたよね。
矢内 ええ。しかし佐治さんはヨーロッパからコンサートやスポーツイベントを招致したり、いろいろそういうことをやられておられたのです。
─ 佐治さんご本人も歌が好きでしたね。
矢内 そうですね。佐橋さんからこの3名の名前が挙がって、わたしは当然皆さんの名前は知っていましたが、雲の上の存在ですから会ったことはもちろんないわけです。
佐橋さんは自分のポケットから名刺を出して、江戸英雄様とか、今里広記様、佐治敬三様とそれぞれ書いて「矢内廣君を紹介します」と一言書いてくださったのです。
わたしはその名刺を持って、一人一人訪ねて行きました。そうしたら、佐橋さんの名刺はやはり効果大でしてね。皆さん二つ返事で、分かりましたと言って、ぴあの相談役を引き受けてくれたのです。
それでみんな集まって相談役会をやっていました。さすがに佐治さんは出席を遠慮されていたので、わたしが毎回報告に伺っていました。
─ 内外に幅広い人脈を誇っていた今里さんとのエピソードはありますか。
矢内 言える話も言えない話も、とにかくたくさんあります(笑)。秘書の西山さんとは今里さんが亡くなったあともずっと付き合いが続いています。わたしが墓参りに行くというと、わたしの行く時間に合わせて彼もお墓に来るんですよ。
─ 人と人の繫がりを感じますね。
矢内 そうですね。あるとき、今里さんが「会食を設けるから、矢内君がこれからそのチケットぴあをやるにあたって、大事な取引先になる方々をご招待して。俺のポケットマネーでやるから。人選はみんな矢内君に任せる」とおっしゃるのです。築地のやま祢というふぐのお店でした。
わたしは驚いてしまって、そんなことやっていただいていいんでしょうかと言いましたら、「いいんだ、いいんだ」とおっしゃるのです。ありがたいお話だなと思って、誰を呼ぼうか真剣に考えました。その時の一人が東映社長の岡田茂さんでした。
─ そこに岡田社長を呼ばれたんですね。
矢内 はい。新年会や忘年会などいろいろな業界の集まりがありますが、当時まだわたしは駆け出しの経営者で、大社長さんたちと会って名刺交換しても忘れられてしまうくらいのレベルでした。
ところが、岡田さんは「矢内君か。俺のそばに来い」と私を傍に置いて交流会に参加していました。
岡田さんのところには業界の偉い人が次から次へと挨拶に来られていました。そこでその方々に「ぴあの矢内社長だ」と紹介してくださるのです。そして「今里さんの紹介だよ」と、必ず付け加えていました。そうやって岡田さんはわたしを業界の中に馴染めるようにしてくださったのです。
─ 岡田さんは非常に親分肌の経営者でしたね。
矢内 そうでした。本当にたくさんの人にお世話になりました。今も今里さんが眠る池上本門寺へ、毎年墓参り行っています。
生前は会社にもよく遊びに行かせていただきまして、机の上に置いてあるオールドパーをよく飲ませていただいたのも良い思い出です(笑)。
書店に『ぴあ』を置いてもらうために…
─ 振り返りになりますが、雑誌『ぴあ』を作った当初の話を聞かせてください。
矢内 最初に雑誌『ぴあ』を始める時に、書店取次からは当然実績のない新興雑誌は相手にしてもらえないというところからのスタートでした。それで、しょうがないから直接書店にかけあって置いてもらえないかなと思い、その相談に行ったのが紀伊國屋書店の田辺茂一社長でした。
田辺さんは、「そんな難しい話は自分はよく分からない」と。しかし、中村という男が日キ販にいるからその人を訪ねてみろと言われました。それがのちに8代目の教文館社長になる中村義治さんでした。
─ そうやって多くの人が助け船を出してくれたんですね。
矢内 はい。それでそのあと中村さんを訪ねたら、置きたいと思っている書店のリストを全部持ってきてと言われて、それを持って行ったら、全てに紹介状を書いてくれたのです。
─ 何店舗ぐらいですか。
矢内 100何店ぐらいはあったと思います。その紹介状を持って、「『ぴあ』を置いてくれませんか」とみんなで一度断られた書店に回り直したんです。その紹介状を読んで、「中村さんか。しょうがない、置いてやってもいいよ」と言ってくれた店が89軒もありました。ありがたかったですね。
─ このことがあったからのちにぴあは大きくなっていったといってもいいですかね。
矢内 その通りです。これがなかったら、書店に『ぴあ』が置かれていないわけです。『ぴあ』が世に出ていけたのは、田辺さんと中村さんのおかげなんです。ですからお2人が一番最初の大恩人です。
─ 最初、紀伊国屋の田辺さんには直接アポイントを取ったんですか。
矢内 田辺さんが業界紙に出ていまして、そのインタビュー記事で田辺さんが、今のままだと書店は、立ち行かなくなると。つまり、取次店と書店とでマージンの取り合いをしている状況です。取次店が主で書店の取り分が少ない、という旨を発信されていました。
このままだと日本の出版文化は立ち行かなくなるとその業界紙で田辺さんが言っていたのを読んで、なるほどと。
われわれが取次店と取引できないのであれば、書店に直接持っていけば取次店に渡す分も含めて書店にマージンを渡せるなと。この考えは田辺さんが雑誌で言ってることと同じことになるのではとわたしは考えたのです。
─ 流通・ダイエー社長の中内㓛さんと同じですね。
矢内 そういうことを発想して、田辺さんにお電話するんです。でも最初からうまくはいきませんでした。
新宿紀伊國屋書店に電話をしたら、受付の方に「どういうご用件ですか」と。業界紙に出ていた田辺社長のインタビュー記事を読んでといって、先ほどの考えをお話しました。
そうしたら別の電話番号をもらってこちらに電話してくださいと。渡されたのは悠々会の電話番号で、田辺さんは会長をやっていたので今そこにいると。
それでそっちに電話したのですが、また用件を聞かれて、1からお話して、やっと田辺さんにつながって、田辺さんにまた同じ話をしました(笑)。そしたら、そういう話は電話ではだめだと。
─ 直接会って話そうと。
矢内 はい。それで松濤の田辺さんの自宅に行ってお話して、のちの教文館社長の中村さんを紹介されたという経緯です。ありがたい話です。ぴあはそういう人生の大先輩方に助けられて、引き上げていただいたからこそやってこれたという歴史があります。
チケットの電子化実現に向けて…
─ 「チケットぴあ」をはじめたときは、最初から手ごたえはありましたか。
矢内 つくるまでは大変でしたが、チケットの売り方はやがて電話などに変わっていくはずだという確信めいたものはありました。 「チケットぴあ」の開始は、日本で始めたキャプテンシステムへの参加がきっかけでした。
これはイギリスで開発されたプレステルという、電話回線を使い各家庭と結び合わすものです。電話通話のための回線だけでなく、その回線を使って情報をやり取りする新しい情報伝達システムでした。
これは遠からず日本でも同じようなことが出てくるだろうなと思っていましたら、当時の電電公社と郵政省が共同開発したキャプテンシステムの実証実験をやるということで、参加者を募集すると。そこで真っ先に手を挙げたんです。
─ いち早く、チケット事業でも回線の利用を考えていたんですね。
矢内 はい。まだインターネットは出てくる前でしたが、これからはネット時代になるだろうなと。
そうなればチケットも情報でやり取りする時代が来ると見ていました。それまでチケットはプレイガイドに紙の切符がおいてあって、それを購入していたのです。それを紙ではなく情報にしてしまえばプレイガイドに行く必要もないと。
電話で何月何日の何のチケットを何枚欲しいと言えば、予約ができてしまう。「チケットぴあ」スポットを都内に何か所かおいて、そこにチケットを取りに行く仕組み。あるいは郵送でも可能ということにすれば、お客様はチケットが買いやすくなるし、行ってみたら「売り切れ」ということもなくなります。
それで「チケットぴあ」のスタートは当時の日本電信電話公社(現NTT)と共同開発になっていったのです。
─ 電電公社の人たちとの対話も重ねましたか。
矢内 やりました。当時コンピューターは非常に高価で、まだ一般にコンピューターを使うことはほとんどなかった時代です。街の中のネットワークでは、銀行がようやく使い始めたぐらいで、切符を売るためにそのコンピューターを使うのは非常に珍しかったです。
とにかくそのシステムの値段が高いから困ったなということで、当時電電公社の最終代総裁の真藤恒(当時石川島播磨重工業社長、現IHI)さんに会いにいきました。
─ 当時は全国一律電話料金は3分10円でしたね。
矢内 ええ。それで、われわれぴあは、その電話回線を利用して、チケットの販売をしようとしていますと。電話通話だけではない新しい回線の使い方を考えているのでご協力いただきたいと。
コンピューターの値段が非常に高いので、できれば電電公社で、「チケットぴあ」をやるためのコンピューターを購入していただき、われわれに月額リース契約で貸してほしいとお願いに参ったのです。リースであればわれわれの資金繰りも楽になるわけです。
─ そうしたら何と言われたんですか。
矢内 総裁は「えっ」とわたしの顔を睨んで見て、君は面白い人だねと言っていただき、ちょっと考えとくからという返事でした。それから1週間後に承諾するという連絡がありました。
このことで、われわれの事業計画が一気に楽になって1984年から「チケットぴあ」がスタートできたのです。本当に今日まで来るのに、いろいろな人にお世話になりました。(了)