大手半導体メーカーのクアルコムが2026年6月、米国で開催された「Augmented World Expo」(AWE)において、空間コンピューティング向けの最上位にあたるチップセット「Snapdragon Reality Elite」と、パーソナルAIデバイスの製品化を支援するプログラム「Snapdragon START」(Qualcomm Scalable Turnkey AI-Ready Toolkit)を発表した。

  • クアルコムがXR/ARデバイスを中心とするパーソナルAI向けの新しいチップセット「Snapdragon Reality Elite」を発表した

    クアルコムがXR/ARデバイスを中心とするパーソナルAI向けの新しいチップセット「Snapdragon Reality Elite」を発表した

一方はMR(複合現実)体験を支える高性能な半導体プラットフォーム、もう一方はモジュール、ソフトウェア、量産支援までをパッケージにしたプログラムという、一見すると性格が大きく異なる2つの発表だ。それぞれの内容を深掘りしてみると、半導体メーカーからAIに関わるトータルソリューションの企業に変貌を遂げようとしている、クアルコムの戦略が浮かび上がってくる。

最上位チップ「Snapdragon Reality Elite」を投入

Snapdragon Reality Elite(以下、Reality Elite)は、従来のSnapdragon XR2+ Gen 2プラットフォームを継ぐ、MR/XR系の最上位プラットフォームに位置付けられる。今後、スマートグラスなどを主な対象とするARシリーズのSoCを含む、既存製品のすべてをReality Eliteに集約するわけではない。

クアルコムの日本法人・クアルコム シーディーエムエー テクノロジーズのマーケティング統括本部長である泉宏志氏は、新しいチップセットが生まれた背景を次のように説明している。

「今から5〜6年前はまだ市場においても、AR・VR・MRのそれぞれの展望が定まっていなかった時期です。その後、スマートグラスやヘッドセットもフォームファクターやユースケースが細分化し、グーグルが展開するOS基盤のAndroid XRがめざす方向も見えてきました。Snapdragon Reality Eliteは、多様化するパーソナルAIデバイスに対する市場の要求を柔軟に取り込めるプラットフォームです」

  • クアルコム シーディーエムエー テクノロジーズのマーケティング統括本部長 泉宏志氏に、クアルコムのパーソナルAIに関連する戦略を聞いた

    クアルコム シーディーエムエー テクノロジーズのマーケティング統括本部長 泉宏志氏に、クアルコムのパーソナルAIに関連する戦略を聞いた

たとえばスマートグラスであれば、Reality Eliteはオールインワン型ヘッドセットに加え、演算部やバッテリーを外付けタイプのデバイスに分離するテザード型などにも幅広く対応する。ビデオシースルー(VST)とオプティカルシースルー(OST)の双方を想定し、ゴーグル型から眼鏡タイプ、バイザータイプまでメーカーが製品のコンセプトに合わせて実装できる柔軟性を持たせた。

前世代のチップセットであるXR2+ Gen 2と比較した場合でも、Reality Eliteが遂げた性能の飛躍は大きい。GPUは最大60%、CPUは最大30%、そしてAI系のタスクを受け持つNPUは最大160%ものパフォーマンス向上を果たしている。これをユーザー体験に落とし込むと、たとえば片目当たり最大4.4K/90fpsの映像表示に対応するパネルをスムーズに駆動できるほか、デバイスに搭載するカメラからディスプレイまでのVST(ビデオシースルー表示)の遅延も約10%改善される。

Reality Eliteは最大48TOPSのAI処理性能を実現した。最大12台のカメラやセンサーから入力されるデータの同時制御、LLM/VLMを用いた生成AI処理をオンデバイスで走らせる余力も確保している。

加えて、同等負荷時のバッテリー駆動時間は最大20%延び、高負荷時のチップ温度は最大12度低下する。スマートグラスやヘッドセットのように、頭部や顔に装着するXR機器では、性能向上による発熱や重量の増加は実用性の損失にもつながる。電力効率の改善が持つ意味は大きい。

CPUにはクアルコムが独自に開発したOryon(オライオン)が選ばれていない。泉氏は、スマートフォンのようなモバイルデバイスでは画面遷移やアプリの起動時に瞬間的な高負荷が生じるのに対して、XR/MRデバイスの場合は使用中に予測可能な負荷が持続するという「違い」があることを指摘する。このことを踏まえたうえで、高いパフォーマンスを発揮しながら、消費電力を抑えられる最適なCPU構成をReality Eliteに採用した。

  • 前世代のXR2+ Gen 2と比較した場合でも、Reality EliteはCPUにGPU、NPUの基幹性能が大きくジャンプアップしている

    前世代のXR2+ Gen 2と比較した場合でも、Reality EliteはCPUにGPU、NPUの基幹性能が大きくジャンプアップしている

エージェントにコンテキストを渡すパーソナルAI端末

クアルコムはXRデバイスにスマートウォッチ、ワイヤレスイヤホンなどヒアラブルを扱う事業部門を統合し、これらを「パーソナルAI」の周辺デバイスとして新たに位置付け、カテゴリを再編している。

ウェアラブルデバイスはユーザーの身体に密着することで、その人を取り巻く状況や行動などのコンテキストを取得し、AIエージェントに提供する役割を担える。たとえばスマートグラスは内蔵するカメラでユーザーの目線から周囲の景色を捉えた映像・画像情報を記録したり、耳元のマイクで周囲の音を認識して、さまざまな形のデータをAIエージェントと共有できる。

あるいはスマートリングやスマートウォッチであれば、心拍数をはじめとする生体情報を継続的に取得できる。さらに複数のデバイスが連携すれば、AIエージェントはそれぞれから得られる多様なデータを統合・分析し、ユーザーの行動を先読みしながら状況に応じた支援が提供できるだろう。

AWEでクアルコムは、オーディオ向けチップセットとして発表済みの「Snapdragon S7+ Gen 1 Sound Platforms」(以下、S7+ Gen 1)を使う、第2世代のスマートリングコントローラーのコンセプトを発表した。指輪型デバイスを装着して、手や指によるさまざまなジェスチャーだったり、あるいはタッチやタップなどの操作から、ワイヤレスでつながるスマートグラスや車載機器を動かす構想だ。

S7+ Gen 1はAI処理を担う専用のMicro NPUに加え、各種センサーから得られる情報を低消費電力で処理するセンサーハブを統合するチップセットだ。さらに、Bluetoothと低消費電力Wi-Fiを組み合わせ、ワイヤレスオーディオの通信範囲と品質を高めるクアルコム独自の接続技術「Qualcomm XPAN」(Qualcomm Expanded Personal Area Network Technology)にも対応する。

  • 低消費電力のWi-Fiプロトコルで接続して、ワイヤレスオーディオデータの安定接続を実現する「Qualcomm XPAN(エクスパン)」の技術が、スマートAIデバイスの時代にも応用できる

    低消費電力のWi-Fiプロトコルで接続して、ワイヤレスオーディオデータの安定接続を実現する「Qualcomm XPAN(エクスパン)」の技術が、スマートAIデバイスの時代にも応用できる

こうした機能を応用しながら、モバイル側のチップセットと処理を分担すると、たとえばスマートリングやイヤホンをはじめとするウェアラブルデバイスが取得した情報を、ユーザーの「コンテキスト」としてAIエージェントへ効率よく送り出す仕組みが作れそうだ。

そこにはスマートフォンやパソコンだけでなく、ホームIoTデバイスやオートモーティブなど、複数のエッジデバイスが連携してユーザーを支援するクアルコム独自の「パーソナルAI」の世界観が浮かび上がってくる。

Snapdragon STARTが“ものづくり”の参入障壁を下げる

高性能なチップセットが存在するだけでは、スマートグラス市場に広がりは生まれない。光学系、フレームのデザイン、アプリケーションの開発、クラウドAIなどさまざまな知見を束ねる必要がある。Snapdragon STARTは、エレクトロニクス機器の開発経験を持たないアイウェアやファッションブランドにとって、スマートグラスなどパーソナルAIデバイスのカテゴリーへの参入障壁を下げるための新しいプロジェクトだ。

クアルコムは2021年に、AR・VR・MRアプリケーションの開発基盤として「Snapdragon Spaces XR Developer Platform」も立ち上げている。このSnapdragon Spacesは、主にソフトウェアの互換性を支えるプラットフォームだった。STARTでは、スマートグラスなどのプロダクト開発を支援するところまで踏み込んだ。

STARTの支援プログラムは大きく3つのレイヤーに分けられる。

第1のレイヤーは、AIを搭載したスマートグラスなどのハードウェアを開発するための小型SiP(システム・イン・パッケージ)モジュールだ。ハードウェアの開発実績はないものの、ソフトウェアに関する豊富な知見を持つブランドなどはこのモジュールを足がかりに自社製品を開発できる。

第2のレイヤーはコンパニオンアプリやAIエージェントとの連携を含むソフトウェア層だ。デバイス、コンパニオンアプリ、クラウドサービスをつなぎ、特定の開発ベンダーによるAIモデルに依存しない、安全性の高いソフトウェア基盤を提供する。対象として想定されるのは、ハードウェアやソフトウェアを持たないが、一方で眼鏡のフレームや光学系に関する豊富な実績と知見を持つアイウェアブランドなどだ。なお、このソフトウェアは、第1のレイヤーとして提供されるSiPを動かすための専用ソフトウェアであり、単体で切り出して提供するモデルは用意されていない。

最後の第3のレイヤーは、ホワイトラベル製品(OEM/ODM)の提供やカスタム設計、量産支援をはじめとするビジネスのスケールアップに向けたサポートだ。たとえば、ホワイトラベルのスマートグラスに自社ブランドのロゴを冠して展開したいといったニーズにも対応する。スマートグラスを組み込んだシステムインテグレーションサービスを物流に製造、医療など、多様な分野に向けて提供することをめざすベンダーによる採用が見込まれる。

  • Snapdragon STARTのプロジェクトにはApplied Materials、Avegant、Jorjin、Pegatron、Thundercommなども技術・製造面でパートナーとして参画する

    Snapdragon STARTのプロジェクトにはApplied Materials、Avegant、Jorjin、Pegatron、Thundercommなども技術・製造面でパートナーとして参画する

スマートグラスも「AI体験の価値創造」を課題に見据える

クアルコムがスマートグラスやゴーグル型ヘッドセットを含むウェアラブルデバイスにどのような期待を寄せているのか、泉氏に聞いた。

泉氏によれば、Metaのスマートグラス「Ray-Ban Meta」の成功は、クアルコムにとっても大きな意味を持つという。Metaが2023年9月に発表したRay-Ban Metaや、2025年秋に米国で発売したディスプレイ搭載モデル「Meta Ray-Ban Display」には、いずれもクアルコムの「Snapdragon AR1 Platform」が採用されている。クアルコムは今後数年にわたり、AIを搭載したアイウェア型スマートグラスが製品カテゴリーとして成長を続け、出荷台数も拡大すると見込んでいる。

  • Metaによる第2世代のRay-Ban Meta AIスマートグラスは、日本でも販売がスタートした

    Metaによる第2世代のRay-Ban Meta AIスマートグラスは、日本でも販売がスタートした

先に触れたSnapdragon STARTには、複数のアイウェアブランドをグローバルに展開する英国のInspecsも参画している。同社はクアルコムと連携し、スマートグラスの市場投入をめざすパートナーの一社だ。アイウェアは、装着感やデザインが購買を左右する大きな要素になる。Snapdragon STARTは、クアルコムが築いてきた技術面のエコシステムに、ファッション性や量産に関する知見を結び付ける取り組みでもあるということだ。

一方で泉氏は、ヘッドセット型のVR/MRデバイスが今後急速に普及するとの見方には慎重な姿勢を示した。ただし、3D CADや遠隔支援をはじめとする産業用途では、今後も安定した需要が見込めるとしている。

  • 取材に応じるクアルコムの泉氏

    取材に応じるクアルコムの泉氏

スマートグラスやヘッドセットにおいて、「唯一の正解」と呼べるフォームファクターやユースケースが今後現れるとは限らない。むしろ注目すべきなのは、クアルコムがチップセット、低消費電力通信、オンデバイスAI、モバイルデバイスとの連携に加え、開発や量産を担うパートナーのネットワークまで押さえていることだ。これらを組み合わせることで、次世代のアイウェア型AIデバイス市場を多様な方向から支えられる柔軟なプラットフォームを形成しつつある。

Snapdragon Reality EliteとSnapdragon STARTが示すのは、クアルコムのAI戦略を単にスマートグラスという新たなデバイスカテゴリーへ広げる動きではない。同社のパーソナルAI戦略と合わせて捉えれば、ユーザーのコンテキストを捉える複数のデバイスとAIサービスを結び、その体験全体を支える「AIソリューション企業」へと進化するための重要な布石であることが見えてくる。