SAPは今年の年次イベント「SAP Sapphire」で「Autonomous Enterprise(自律型エンタープライズ)」というビジョンを打ち出した。AIアシスタントとエージェントが人間とともに働き、ビジネスプロセスを自律的に最適化していく世界だ。そのなかでCloud ERPはどのような役割を担うのか。そして標準化へのこだわりが強いSAPのアプローチは、カスタマイズ志向の強い日本市場にどう響くのか。
スペイン・マドリードのSapphire会場で、Cloud ERPのプロダクトマーケティングを統括するJonathan Rhodes氏に話を聞いた。
ERPはAIの「脳であり、心臓であり、動脈」――Autonomous Enterpriseの土台
--今回のSapphireで発表したS/4HANA Cloud Public Edition関連の強化を教えてください--
Rhodes氏: 大きく3つある。
1つ目はAI機能の強化だ。S/4HANA Cloud Public Edition向けのエージェントを含む21のAIアシスタントが利用可能となった。
2つ目はマネージドスイートだ。S/4HANA Cloud Public Editionに加え、SuccessFactors Employee Central、Ariba、Central Invoice ManagementなどをSAPが一括して管理する。顧客は各ソリューションを利用するだけで、統合やモニタリングはSAPが担うため、SaaSスイートをよりシンプルに導入できる。
3つ目が「Joule Work」だ。ユーザーが自然言語で指示すると、Joule Assistantsが複数のJoule Agentsを調整し、必要な情報を提示しながら業務を自動化する。SAPだけでなく非SAPシステムも含めた業務を横断的に支援する。
これらを通じて、AIやエージェントを含むクラウド環境全体をSAPが管理し、顧客は製品ごとの違いを意識することなく必要な機能を利用できるようにしていく。
--SAPは今回、「Autonomous Enterprise」というビジョンを打ち出しました。その中で、S/4HANA Cloud Public Editionはどのような位置付けになるのでしょうか--
Rhodes氏: 信頼性の高いAIを実現するには、強固な基盤の上で動作することが不可欠だ。Christian(SAP CEOのChristian Klein氏)はERPを「脳」と表現したが、私はERPはむしろ「脳であり、心臓であり、動脈でもある」と考えている。あらゆるものがERPを通じて流れるからだ。
Public Editionは高度に標準化されており、ベストプラクティスに基づいている。そのため、AIを非常に迅速に導入でき、信頼性の高い情報に基づいてAIを動かすことができる。ERPこそが、Autonomous Enterprise(自律型エンタープライズ)とAI導入の土台となるものだ。
--自律型エンタープライズというビジョンにおいて、S/4HANAはどのような役割となるのでしょうか?--
Rhodes氏: S/4HANA Cloudは、自律型エンタープライズを実現する中核となる。2025年に発表したSAP Business Suiteは、SAPの各ソリューションを統合する構想だ。その中でS/4HANA Cloudは、多くの顧客にとって最初の導入ポイントとなり、そこから人事や調達などスイート全体へ利用を広げていく。
Autonomous Suiteは、こうしたアプリケーションやデータ、AIエージェントを含むSAP全体のポートフォリオを指す概念であり、その中核となるのがCloud ERPだ。一方、Business AI Platformは、AIの構築やガバナンスを担う基盤となる。Autonomous Suiteは、新世代のAI機能をすべて備えたソリューション群の呼称と理解していただきたい。
標準化はAIを加速する
--S/4HANA Cloud Public Editionでは標準化されたプロセスを重視しています。AIの活用において、標準化にはどのような意味があるのでしょうか。また、日本市場をどう見ていますか--
Rhodes氏: 標準化されたプロセスは、AIエージェントをより速く、確実に動かすうえで重要になる。業務プロセスが標準化されていれば、エージェントはあらかじめ想定された手順に沿ってすぐに機能できる。一方、独自プロセスが多い場合は、その処理方法をエージェント側にも学習・適応させる必要がある。
ただし、S/4HANA Cloud Public Editionは100%の標準化を強制するものではない。日本企業には独自プロセスを重視する傾向があるが、SAPではコアに手を加えない「インアプリ拡張」や、SAP Business Technology Platformなど外部環境で機能を追加する「サイドバイサイド拡張」によって対応できるとしている。
日本市場では、標準プロセスをそのまま採用するよりも、自社要件との落としどころを探る傾向が強い。そのため、グローバルより導入に時間がかかることも想定しているという。
エージェントについても同様に、標準化できる業務はそのまま自動化し、営業プロセスのように企業ごとの差が出やすい領域は必要に応じてカスタマイズできる。SAPとしては、標準を最大限活用し、差別化につながる部分に限ってカスタマイズすることを推奨している。
--Sapphireでは、Jouleが企業固有の業務プロセスやコンテキスト(文脈)の理解のための「Company Memory」も発表しました。この機能について教えてください--
Rhodes氏: Company MemoryはSAP Signavio内のナレッジ機能として、AIが企業ごとの業務プロセスや社内ルールを理解するための仕組みとなる。サードパーティのAIツールはそのプロセスを理解していないことが多いが、Company Memoryにより、SAPのAIはコンテキストに即した判断ができる。さらに、セマンティックデータモデルを持つことで、単に何らかの回答を返すのではなく、正しい回答を正確に取得できる。
Company Memoryにより、ERPのデータだけでは分からない社内ポリシーや経験則、メール、文書などもAIが参照できるため、その企業の文脈に沿った判断が可能になる。
例えば、売掛金エージェントが貸倒れを処理するケースでは、Company Memoryがあれば、通常の取引履歴だけでなく、「貸倒れの償却を減らす」という新しい社内方針も参照できる。その結果、古い運用を踏襲するのではなく、最新のポリシーに基づいた判断ができるようになる。
SaaS終焉論は完全に間違っている
--SaaSの終焉が議論されていますが、どう思われますか--
Rhodes氏: SaaS終焉論は完全に間違っている。私は会計士の出身だが、企業には監査可能で、ガバナンスが効いており、セキュアな基盤――すなわちERPが必要だ。ClaudeのようなAIツールでコーディングするだけでERPと同等のシステムが構築できると考えるのは、現実的ではない。
SNSで「2日でHRシステムを作れる」という話を見かけることがあるが、それが本当に堅牢かどうか、70カ国の労働法に対応しているかどうかという問いには答えられない。軽量なプロトタイプであれば話は別だが、エンタープライズグレードのグローバルシステムはそれほど単純なものではない。ERP市場への新規参入の歴史を見ればわかるように、多言語・多通貨対応や各国の規制要件をすべて満たすグローバルシステムを堅牢に構築することは、非常に難しい。
とはいえ、この議論は顧客がAIに何を求めているかを改めて考えさせてくれる契機でもある。そして、バイブコーディングなどコーディングを高速にするような技術はSAPでも活用が進んでおり恩恵を感じている。
AI時代は「業務をそのまま移行しない」
--オンプレミスが強い日本の大企業に対して、SAPはどのようにアプローチしているのでしょうか?--
Rhodes氏: 現在の業務を分析し、標準機能で対応できる部分とカスタマイズが必要な部分を見極めながら移行を進める。
既存のECCオンプレミス顧客に対しては、「Digital Discovery Assessment(DDA)」というツールを使い、現在の業務とS/4HANA Cloudでの運用との差分を事実ベースで分析する。
実装期間についても現実的に見ている。グローバルの平均は約24週間だが、日本市場ではより協調的なアプローチが必要なため、その倍程度かかることも想定している。
ただし、オンプレからの移行は感情面についても考える必要がある。多くの顧客が長年作り込んできたシステムに誇りを持っている。移行のメリットがその変更を正当化できるかを示すために、共感を持って向き合うことが欠かせない。同時に、オンプレミスや高度にカスタマイズされた環境にとどまり続けることは、今後登場してくるものを採用・活用するうえで非常に難しい状況を生み出すことも、正直に伝えなければならない。
AIにより、もう一つ重要な視点が加わった。AIによって業務プロセスが変わるため、システム移行後も同じプロセスを再現しようとするべきではないことだ。これまで作り込んできたものの多くが、新しいアプローチの中で不要になる可能性がある。
人的な側面も見落とせない。「退屈な作業はSAPが担うので、あなたたちはイノベーションや新しいビジネスモデルに集中できる」というメッセージこそが重要だ。
--Change Managementや感情面での課題に対して、SAPはどのように支援していくのでしょうか?--
Rhodes氏: Change Managementで重要なのは、技術ではなくビジネス価値を示すことだ。日本では技術的な議論になりがちだが、「何を達成したいのか」「今後10年間、生産性を高めながら事業を拡大できるプラットフォームが必要ではないか」という視点で顧客と対話している。
日本企業の東南アジアなどへの海外展開も加速しており、そうしたプラットフォームがあれば非常にスムーズに対応できる。技術的な比較よりも、そのビジネスアウトカムや地理的成長の可能性を示すほうが、はるかに説得力を持つ。
日本企業にも変化が見られる。米国のSapphireで2社の日本企業と面談したが、最先端技術やAIを積極的に取り入れようとする姿勢を感じた。以前は「安定稼働、確実な運用」への圧力が強かったが、今は経営層から「新しいテクノロジーを積極的に取り入れていることを示せ」というプレッシャーがかかっている。
顧客やパートナーからも、ファーストアダプターを目指すという声や、東南アジアへの事業拡大を見据えたプラットフォーム刷新への関心が高まっている。SAPは、こうした変化をAI時代への転換点と捉えている。

