
人間は真ん丸の心で生まれない
─ 学校の教科書にも載っている『乾杯』をはじめ、『順子』や『とんぼ』『ろくなもんじゃねぇ』など、数々の名曲を生み出したアーティストの長渕剛さんと、長渕さんの出身地・鹿児島県の先輩である京セラ創業者の稲盛和夫さんを介して親交を深める小林製薬の大田嘉仁さんとで「人はどう生きるか」をテーマに語っていただきます。まずは長渕さんにお聞きしたいのは、長渕さんの曲は人を励ます歌が多いと思うのですが、一方で自分には弱さもあるといった心情も吐露されていますね。
長渕 そうですね。僕が思うのは、人間は真ん丸の心で生まれてこないということです。お金持ちもそうではない人も、どんな人間でも生まれたときには、いわゆる「三日月の人」がいたり、「半月の人」がいたりすると思うようになったんです。
僕は18年間、鹿児島で親や姉、親戚などに育てられ、さらには町にも育まれてきました。学校の先生をはじめ、いろいろな方々に育てられてきたのです。そして背中を押されるように東京に来ました。そのうちに自分の中の純粋な部分だけでピュアに生きていくんだと思っていても、どこかでガツンと社会からの制裁に遭ったりしたわけです。
そのときに自分は「えっ?」と思う。自分はピュアな気持ち一本でこの道を一途な思いで生きてきたのに、なぜこんなに社会から叩かれるのだろうかと。しかし、ふと社会の風からこんな声が聞こえてきたんです。「お前はな、純粋にピュアに生きてきたと思っているんだろうけど、皆そうなんだ。おまえは無知なんだ。純粋と無知は違う」と。
ながぶち・つよし
1956年鹿児島県生まれ。78年にシングル『巡恋歌』で本格デビュー。その後、『順子』『乾杯』『とんぼ』『しゃぼん玉』『しあわせになろうよ』など数多くのヒット曲を生み出す。また、全国各地で記録的な動員数を誇るライブも開催。音楽以外にも俳優としてテレビドラマや映画にも出演。芸術家として詩画展も開催している。
そこから僕は知性を身に付けなければならないと思ったんです。それまで僕はどちらかというと無学に等しかった。ほとんど勉強してこなかったんです。昔から「あそこまで行ってみよう」と思うと、おっかなびっくりではなく、一生懸命、全力で走る。そうすると、壁にぶつかります。そこで頭から血が出てきたら「ああ、こうやったら頭から血が出るんだ」と分かる。もう体感で生きるしかありませんでした。ですから、そういった生き方に僕は振り切りました。
─ 何歳のときですか。
長渕 小さな頃からですね。
─ ケンカはしましたか。
長渕 ええ。でも強くはなかったです。強いと思い込んでいても結局、一途に進んでいくので、どこかでガツンとやられます。社会は武道のように「用意、始め!」で始まりません(笑)。そこから殴られてみて初めてケンカの在り方を学ぶような、そんな不始末の繰り返しでした。
強いか弱いかでいえば、非常に弱かったんじゃないかな。ただ、向こうっ気だけはありましたから、たくさん血を流したり、いっぱい傷はできたと思いますが、僕はぐれずに済んだ。そこは母の教えがあったと思います。
長渕さんからの面会依頼
─ そんな人柄の長渕さんと出会った大田さん、2人のお付き合いはどのくらいですか。
大田 長渕さんが鹿児島の桜島でライブを開催した2004年頃からのお付き合いです。
長渕 オールナイトライブの前後でしたね。
大田 はい。ですから、最初にお会いしたのはオールナイトライブの1年ぐらい前だったと思います。それから数えると、もう20年以上になりますね。
─ きっかけは稲盛さんとの縁ということになりますか。
大田 そうですね。もともと長渕さんが桜島ライブを開催するというときに、鹿児島出身で日本を代表する経営者の稲盛さんと会いたいという連絡をいただきました。当時、私は秘書室長だったのですが、稲盛さんとの面会が決まると、長渕さんから、CDやDVDなどが入った段ボールひと箱を送っていただきました。このとき驚いたのは、稲盛さんが長渕さんを知らなかったということでしたね(笑)。

京セラ創業者・稲盛和夫氏(故人)
─ 稲盛さんは長渕さんのCDなどを聴いたのですか。
大田 忙しい中、全ての作品に目を通していました。人と会うときの礼儀だというのです。その後に2人は面会することになるのですが、これまでも芸能人の方などから稲盛さんにお会いして資金的な援助や動員などをお願いされるケースがありました。ただ、長渕さんは既にファンもたくさんいらっしゃいますし、お金もあります(笑)。何しに来られるのかなと思っていました。
実際に面会してお話を聞いていると、長渕さんは郷土の著名人でもある稲盛さんに一言、「頑張って欲しい」と言っていただきたいとおっしゃったのです。それを聞いた稲盛さんも長渕さんの覚悟と迫力を真正面から受け止めました。その後、長渕さんの武道館のライブにも招待していただき、稲盛さんと一緒に観に行きました。ライブでは長渕さんが1万人以上のファンの方々を魅了されていました。これには稲盛さんも驚いていました。
─ ファンを一気に惹き込んでいる長渕さんの姿ですね。
大田 ええ。ライブ会場では集まったお客さんを長渕さんが操っているようにも見えました。どうしてそんなことができるのか。稲盛さんも長渕さんにすごく関心を持たれたのです。
詩画展で案内を拒否
─ 大田さんから見た長渕さんの印象ですが。
大田 繊細だということです。最初にそう思ったのは、鹿児島で開催された長渕さんの詩画展を稲盛さんと観に行ったときです。長渕さんは絵も描いておられて、鹿児島県歴史・美術センター黎明館で詩画展を開くので、見に来て欲しいという連絡をいただきました。多忙だった稲盛さんがまさか行くとは思わなかったのですが、「よし、行こう」と。それで休館日にお邪魔しました。

おおた・よしひと
1954年鹿児島県生まれ。78年立命館大学経済学部卒業後、京セラ入社。90年米ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。帰国後、秘書室長、取締役執行役員常務。2010年日本航空専務執行役員。15年京セラコミュニケーションシステム会長。18年日本産業推進機構特別顧問。19年MTG会長。25年3月から現職。
会場では長渕さんが出迎えてくれたのですが、稲盛さんが「剛、案内してくれ」といったら「嫌です」とおっしゃる。自分が説明したら先入観を持たれることを懸念されたのです。「私はここで待っていますから、1人で回って見てください。後で感想だけ教えて欲しい」と。
─ 稲盛さんも「おっ、すごいことを言うな」と?
大田 そう思ったでしょうね。「わかった」と言って一通り見て回りました。その間、長渕さんは控え室で1人で待っていました。稲盛さんが戻ってくると長渕さんは「どうでしたか」と聞き、稲盛さんは「素晴らしかった」と。それを聞いた長渕さんも「ありがとうございます」と一言。それだけの会話で別れました。お互いすごいなと感じましたね。
─ 普通なら雑談も含めて、いろいろな会話をしそうですが。
大田 そうなんです。超多忙な稲盛さんに、自分が描いた絵をわざわざ見に来てもらっているのですから、例えば、これはハワイの風景ですとか、その背景を含め、説明されると思っていたのですが、長渕さんは、そうしなかった。それは長渕さんが繊細な方だからと思います。
稲盛さんも、そのことを察して多くを語らなかった。それでいて、お互いに満足してその場を別れた。それを見て、私は、感性が合っているのだろうと強く感じました。
─ 長渕さんには繊細さと大胆さが同居しているのですね。
長渕 どうですかね(笑)。繊細なのか大胆なのか、自分にはよく分かりませんが、言えることは絵や音楽、詩、歌といった表現は本人が放ってしまった瞬間、その受け止める人のものになるということです。
受け止める人の気持ちまでも自分の側に連れていくことは作家のエゴの何者でもないと。今にしてみれば、大変なことを言ったなと思いますけど(笑)。勝手に観てもらって感想は聞かせてくださいと言ったんですから。
大田 わざわざ長渕さんのようなスーパースターが現地まで来て入口で待っておられたわけです。当然、案内もしてくれるのだろうなと思いますよ(笑)。
─ 大田さん自身は、どのような感想を抱いたのですか。
大田 私は大人(たいじん)だと思いました。小人(しょうじん)であればペラペラと自分のことを自慢しますからね。
─ 稲盛さんにも「なるほど」と思わせるものがあったと。
大田 大いにあったのではないでしょうか。武道館のライブでは、1万人以上の聴衆の方々をある意味で自由に操るというすごい表現力を持っておられる。長渕さんは厳しい完璧主義者ですから、それまで大変な準備をされているはずです。ライブでは、完璧な準備をして、1万人を相手にする。一方で詩画展では、1人で稲盛さんを待って感想を聞く。そんな両極端な面を持っておられる人だと思います。
「ただ側にいて欲しかった」
─ 長渕さんから見た稲盛さんの印象はどうでしたか。
長渕 全てが大きかったですね。立ち入る隙間がないような印象を受けました。お会いする前から稲盛さんのお名前や功績は知っていました。すごい大先輩がいらっしゃるなと。実は当時、僕は47歳だったのですが、音楽の座組がシステマチックになってしまっていたことに辟易していたんです。先ほどの桜島でのオールナイトライブが企画されていた2004年頃です。
その頃はまだ父も存命で、僕も命をかけ、故郷に骨をうずめる覚悟でライブをやるんだと父に伝えていました。その気持ちは仲間にも話していました。何万人も集めるライブです。市民は巻き込むわ、県は巻き込むわ、日本中を巻き込むほどです。
しかも、桜島は活火山。いつ噴火するかも分からない。そんな所でオールナイトのライブをやるのに「何をぬかすんだ」と言われることも覚悟していました。当然ですよね。さらに、せっかく桜島でオールナイトライブをやるわけですから、桜島の眼前から朝日が昇らなければ腹を切るしかないとも思いました。このプレッシャーは怖いですよ。
─ 支えが欲しかった?
長渕 そうかもしれません。突然、ふと稲盛さんにお会いして、側にいてくださいということを僕は言いたかったんだと思うんです。「会長、僕は社会的な信用が欲しいのかもしれません」と言った記憶があります。でも、本音を言わせてもらうと、やはり怖かったんだと思います。
─ 鹿児島というと、西郷隆盛や大久保利通といった歴史上の偉人を生んだ場所柄です。
長渕 はい。その中で稲盛さんは伝記上の人物ではなく、実際に生きて現存していらっしゃいました。カリスマ性や強烈な安定感を持ち、他者に幸せをもたらす人です。同郷でもあるそんな人に一度でも会って、側にいて欲しかったのではないかな。それで稲盛さんにライブに来てくださいとお願いしました。
稲盛さんからすれば、当時の僕をどこかのあんちゃんがやって来たな、金欲しさでやって来たんだろうなと思っているに違いないと思いました。それでもお会いして一通り、僕の思いを伝えて「ありがとうございました」と頭を下げて帰ろうとしたときに、稲盛さんから「おーい」と呼び止められたんです。
そして「俺の席はあるかね」と(笑)。もちろん僕は「あります! 特等席を用意しておきます!」と言いました。完璧に食らっちゃいました。なんて素敵なおやじさんなんだと(笑)。
ライブ終了後の控室で……
─ 稲盛さんはその場でライブに足を運ぶことを決めたんですね。桜島ライブの動員数はどのくらいだったのですか。
長渕 約7万5000人以上です。
大田 私も稲盛さんと稲盛さんの奥様と一緒に行きました。あのときの鹿児島は大パニックでしたね。飛行機や新幹線のチケットもホテルも取れなくてね。
長渕 夕方から始まって、だいたい9時間のライブでしたね。だからこそ、朝日が桜島の向こうから昇らなければ結実しない。4部ステージで途中の休憩時間を30~40分取るんですが、そんなものでは間に合わないですね。体はとんでもない状態になりました。ですから、事前に医療体制も整えておいて途中で点滴を打ったりして、もう大変でした。
ライブ前日まで食事も喉を通りませんでしたね。県、市、全国を巻き込んで記者会見まで行って大々的に発表したわけです。しかも、こちらが「お願いします」と頼んで稲盛さんにまでおみえいただく。誰に恥をかかせるんだという話です。ただ、やると決めたので夢中ですよ。その中で不安だったのが天候です。
─ こればかりは天命に任せるといった気分ですね。
長渕 ええ。雨でも降ったら、もう駄目ですからね。ところがライブ当日、午前中は雨が降っていたんです。霧島市のホテル京セラの12階から外を見たら雨が降っているではありませんか。もう本当にショックで、どうしようかと。あらゆる神々の呪文をそこで唱えましたね(笑)。
─ 文字通り晴れてくれた。
長渕 そうなんですよ。苦しいときの神頼みとは、こういうことを言うんだなと思いました。雨が上がった空の風景は今でも鮮明に覚えています。おそらく僕が亡くなったら、あそこが自分の行く場所だなというほど、本当に綺麗で崇高な景色でした。金色の何万という稲穂が、ゆっくりとゆっくりと風にサラサラ揺れて黄金に光っているような風景でした。もう二度と見ることのない景色だと思いました。
─ この長渕さんの覚悟を大田さんはどう見ますか。
大田 長渕さんの歌にも「情熱」を連呼する歌がありますが、今のエピソードを聞いても、情熱がいかに大事かということを強く感じますね。稲盛さんもそのあたりに何か感じるものがあったのではないでしょうか。途方もない夢を描き、それを必ず実現するという情熱を失わない。
いろいろな理屈を言って、結局、情熱を失ったり、夢の実現を諦めてしまってはいけないと。どんなことでも目標を定めたら、それをやり遂げるんだというその姿は稲盛さんの哲学に通じます。
─ 稲盛さんが長渕さんを見て言った感想はありますか。
大田 ライブを見た後に「すごいカリスマ性があるな」と言っていました。長渕さんからすると稲盛さんにカリスマ性を感じたということでしたが、逆に稲盛さんから見ても長渕さんにはカリスマ性があったようです。たった1人で7.5万人以上の聴衆を感動させたわけですからね。
ですから稲盛さんは本当に驚いていました。それは私以上だったと思います。それで稲盛さんも長渕さんに一目を置いたのでしょうね。稲盛さんが経営者やアーティストといったジャンルにかかわらず、一目置いた人は少ないですから、長渕さんは数少ない1人です。
一方で私にはもっと驚いたことがあります。その10年ほど後になりますが、大阪城ホールのライブに稲盛さんと、奥様と3人で観に行ったときのことです。稲盛さんはもう80歳くらいになっていたと思います。ライブ終了後に長渕さんの奥様(志穂美悦子さん)から「剛が挨拶をしたいと言っているので」と言われ、3人で長渕さんの控室にお邪魔しました。
帰りに「餃子の王将」で食事
─ 何時頃ですか?
大田 午後9時くらいです。剛さんはすぐ来られると思ったのですが、シャワーを浴び、着替えてくるので、ちょっと時間がかかるとのことでした。ライブ中は飲まず食わずで、お腹が減っていたのですが、それを察して、事務所の方がお寿司を用意してくれていました。稲盛さんに、「ライブでも立ちっぱなしで、お疲れでしょうし、折角なので座ってお寿司を食べましょう」と勧めたんです。すると「何を言っているんだ」と。
「俺は剛にご苦労さん、ありがとうと言うために、ここに来たんだ」と怒られました(笑)。30分ほどして長渕さんが来られると「剛、ありがとう、良かった」と強い握手をして、お寿司も食べずに控室を後にしてしまいました。
─ 挨拶だけだった?
大田 そうなんです。でも、帰りの車の中で私が「稲盛さん、お腹が空きましたね」と言うと、稲盛さんも「腹減ったな」と(笑)。結局、「『餃子の王将』に行こう」となって餃子を食べて帰りました。
長渕 それはお寿司の方が良かったですね(笑)。
─ 稲盛さんらしいですね。
大田 2人の関係は特別だと感じました。普通なら控室で待たされている時点で「何を考えているんだ、疲れている人を待たせて」と怒って帰ってしまうものです。そうではなく、稲盛さんは長渕さんが来るまで、ずっと立ったまま待っていましたし、長渕さんは長渕さんで、汗だくの姿では失礼だと、シャワーを浴びて綺麗な格好をして挨拶に来られました。
─ 人間性が垣間見れるエピソードですね。稲盛さんは「利他主義」を語り、「世のため、人のため」という言葉をよく使っていました。こういった考えが長渕さんにもあるように感じました。(第2回に続く)
