DXやAI活用の必要性が広く語られる一方で、「何をデータ化すべきか」「どこに投資すべきか」が曖昧なまま取り組みが進むケースは少なくない。
3月23日~24日に開催された「TECH+データ×イノベーション エキスポ 2026 Mar. データ駆動型組織を定着させるために、活用のその先へ」の基調講演に、慶應義塾大学大学院経済学研究科委員長・経済研究所長・経済学部教授で、理化学研究所AIPセンターでも経済経営情報融合分析チームディレクターを務める星野崇宏氏が登壇。行動経済学とビジネスサイエンスの知見を踏まえ、マーケティングから営業DXまでを顧客生涯価値(LTV)で一気通貫に捉える重要性が語られた。
「何をDXするのか」が曖昧なままでは成果につながらない
星野氏は講演の冒頭で、多くの企業が「何をDXするのかが曖昧なままコンサルやベンダーに設計を委ねてしまっている」現状を指摘した。データ化、分析、AI実装、システム構築はいずれも手段にすぎず、それよりも先にマーケティングや営業の成果創出、生産性向上といった目的を置くべきだという。
同氏は「やみくもなデータ化はコストがかかるだけ」「データ化・分析・AI活用、それぞれにどれだけROIがありそうかを考えて行うべき」と述べたうえで、その判断の拠り所として過去の研究知見、すなわち「学知」を使うべきだと話した。
BtoCマーケティングを例に取ると、広告、販促、商品構成、棚割り、セット販売、ターゲティングなど打ち手の候補は膨大にある。A/Bテストは有効な手法だが、何をAにして何をBにするのかが定まらなければ、組み合わせが際限なく増えてしまう。
「一番大事なのは、何をAにして何をBにするかです。打率の高い仮説を立てるために、人がどう行動するのかを理解する行動経済学が重要になります」(星野氏)
なぜ販促は「伝え方」で成果が変わるのか(行動経済学)
行動経済学とは、必ずしも合理的ではないリアルな人々の認知や行動を想定した学問だ。星野氏は「人の行動は合理的ではない。だがカオスでもない。特定の傾向やパターンがある」と述べる。
その一例として紹介されたのがフレーミング効果だ。「500円の値引きを受けるために20分移動するか」という問いにおいて、1400円の牛肉が900円になるケースでは68%が「行く」と答え、1万2500円のジャケットが1万2000円になるケースでは71%が「行かない」と答えるという。本質的には同じ「500円のために20分自転車をこぐか」という問題なのに、人は元の金額に引きずられて判断してしまうのだ。伝え方によって大きく効果が変わるこの法則は、健康診断の勧奨通知やサブスクリプション加入の訴求でも活用できると同氏は語った。
講演ではあわせて、アプリのプッシュ通知を使った実証実験も紹介された。有料会員に1000ポイントを付与するという同じ内容でも、「今日会員になると1000ポイントがもらえます(利得フレーム)」、「会員でもらえる1000ポイントが失われます(損失フレーム)」、「あとX時間で1000ポイント付与が終わります(タイムプレッシャー)」と伝え方を変えるだけで、開封率に3倍以上の差が出たそうだ。
こうした行動パターンの理解は、販促の施策設計にも大きく関わる。例えば、一時的な値下げは期間中の売上を押し上げるが、終了後の効果はほぼないという研究結果が得られているという。背景には、安いときだけ商品を買う「チェリーピッカー」の存在や、本来は通常価格でも購入する既存顧客にまで安売りしてしまう問題がある。さらに、一度下げた価格が消費者の頭の中で新たな基準となり、元値に戻すとかえって売れにくくなる「参照価格効果」も働いてしまうのだ。
星野氏は同じ販促を行うにも顧客によって異なる行動パターンを踏まえて、効果がある施策を効果がある対象に行うことが重要であることを強調している。
顧客獲得・維持はなぜLTVで判断すべきなのか
講演の後半では、こうした行動経済学の知見が顧客関係管理(CRM)にどう結び付くかが語られた。星野氏が繰り返し強調したのは、新規顧客の獲得・既存顧客の維持・離脱顧客の再獲得を、顧客生涯価値(LTV)という統一指標で判断すべきだという点だ。同氏は、日本で見られがちなCRMの捉え方として、顧客維持だけが目的になっていることや、優良顧客の優遇を重視しがちな点などを挙げた。そのうえで、こうした発想は世界標準のCRMやビジネスサイエンスとは異なると指摘した。
新規顧客の獲得を例にすると、仮に「家庭用ガス契約」を目指すキャンペーンで予算1億円があり、「全新規加入者に5000ポイント」「若年層に2万ポイント」「新築家庭に5万ポイント」の3つの案がある場合、正解は「新築家庭に5万ポイント」だという。これは、新築家庭は転居の可能性が低く長期的に離脱しにくいため、LTVが高いためだ。
既存顧客の維持についても、「優良顧客ほど優遇する」発想は販促効果の観点では必ずしも合理的ではない。ポイントプログラムの効果を分析した研究では、ヘビーユーザーは天井効果により購買行動がほぼ変わらず、効果が出やすいのはミドル・ライト層だったという。伸びしろがある中間層への投資のほうが、長期的な収益につながりやすいわけだ。
離脱対策についても注意が必要だ。離脱しそうな顧客にクーポンを配る施策はよくみられるが、その施策そのものが解約のきっかけになる場合もあると同氏は指摘する。クーポンをもらうことで、顧客が「無駄なサブスクをしていた」と気付いて解約してしまう可能性があるためだ。
重要なのは、離脱リスクが高い顧客ではなく、クーポン配布などの介入を行ったときに高い離脱防止効果が得られる顧客を見極めて手を打つことである。星野氏は、投資すべき相手は離脱しにくい新規顧客であり、チェリーピッカーや値引きに敏感な顧客に過度なコストを投じるべきではない、だからこそデータからどの顧客を獲得すべきかを選別すべきだと明言した。
営業DXはなぜ「ツール導入」だけでは成果が出ないのか
営業領域でも同じ原則が当てはまる。近年は営業日報のデジタル化が「営業DX」として語られがちだが、星野氏はそれだけで成果が出るとは限らないと慎重な見方を示した。日報の場合、どうしても成功体験である受注データばかりを蓄積しがちだが、むしろ重要なのは、「負け(失注)データ」と「見積もりをいつ誰にいくらで出したか」の記録である。というのも、次の受注につなげるには、「なぜ失注したのか」を検証することが重要になるためだ。また、営業では最初の提示額と最終金額の差が成約を左右することが多い。そのため、見積もりがいつ、誰に、いくらで提示され、その後どこまで下がったか、記録しておく意義は大きいと言える。
同氏は営業の評価制度についても指摘する。仮に売上数量で評価すると、営業は値引きで件数だけを積み上げてしまう。あるいは短期的な利益で評価すると、契約後の維持コストを無視してしまい、結果的にマイナスになってしまう「モラルハザード」が生じ得るという。これらの事態を防ぎ、質の高い顧客を獲得する営業を正しく評価するためにも、獲得した顧客のLTVで評価する仕組みが必要なのだ。
DXは「何のためのデータか」をどう定義すべきか
講演の終盤、星野氏は営業・マーケティング・教育・公衆衛生といった一見異なる分野が、「人のインセンティブに対する反応」という共通のメカニズムでつながっていることを示した。日本ではそれぞれ別々の専門家やソリューションで語られがちだが、世界標準のサイエンスはこれらを一気通貫で見ているという。
まとめとして同氏は、「ビジネスサイエンスの膨大な学知はすでに存在しており、実務のニーズに耐えるレベルにある」と述べた。目的に合わないデータの購入や、保守コストの重いシステムの導入はROIを損ないかねない。顧客や営業の行動メカニズムに基づいて「どんな施策がよいか」を考え、「そのためにどんなデータが必要か」を逆算する――星野氏は、そうした考え方の重要性を強調して講演を締めくくった。
