龍角散・藤井隆太の『私の社長30年史』(第2回)実験だった?

桐朋学園の音楽高校に入学したとき、当時の業界では少なからず話題になったそうです。「跡継ぎを音楽学校に入れたって?」。父は「まあ見ていて、実験だから!」と言ったとか。

 私は3歳のときからバイオリンを習っていましたが、それは私の意志ではなく、音楽好きの両親の意向です。大変幸運だったのは、師事した先生が故・久保田良作先生で、どうせやるなら桐朋学園大学音楽学部附属の音楽教室にも通った方が良いとお勧めいただいたのです。当時の桐朋学園は世界標準に追いつくべく、徹底した早期教育が特徴でした。

 中学校に進むとき、オーケストラのオーディションがあり、幸運なことに合格しました。生徒と親が一室に集められ、そこにヨボヨボと現れたご老人が一言、「親の死に目に会えないと思え。オーケストラは全員参加が原則だから練習であっても欠席は許さん。それができない者は今すぐここから出ていけ!」。有名な故・齋藤秀雄先生でした。

 齋藤先生は最晩年、車椅子で中高生オケの指導に来られていました。あるとき目を閉じて聴いておられた先生が突然目を開いて立ち上がり、指揮棒を振っていた指揮者の学生を押しのけ、「こうやるんだ」とご自身が振り出したのです。そのときの音は未だに忘れられません。人間がここまで迫力のある音を出せるものかと心底驚いたものです。それが、私が見た齋藤秀雄先生の最後の姿でした。いかなるときも妥協を許さず、最高の音楽を届ける努力を怠ってはならないと思い知らされたのです。

 当時の音楽教室では、ピアノやバイオリン専攻の生徒に管楽器を体験させるプロジェクトがありました。一般的に管楽器は始める時期が遅く、音感や譜読みが弱点とされ、それを補完するためのプロジェクトでした。私も家にフルートがあったので試しに行ってみました。そのときにお世話になったのが故・林りり子先生です。

 プロジェクト終了後も先生宅にレッスンに伺っていたのですが、残念なことに数年で先生は亡くなってしまいました。後日、「あの子は絶対辞めさせないように」というのが先生の遺言だったと後日聞かされたのです。

 中学校2年生のときに無謀なことにフルートに転向し、桐朋の音楽高校を受験し合格しました。そのとき父から言い渡されたのが「音楽をやりたいなら必ず食えるようになれ。ただし、余計な援助はしないし、もう会社のことは考えるな。オーナー経営だからと言って、必ずしも長男が会社を継ぐ必要はない」という言葉でした。

 父の真意はお墓に入ってからでないと分かりませんが、薬学の出身で経営のことなど全く分からず、大変なストレスだったようです。いつも学校から苦情が来るほど私を殴っていたのは、まさかストレス発散?